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[[1945年]][[5月1日]]、[[ユーゴスラビア陸軍]]第4軍スロベニア第9軍団がトリエステに殺到した。また、[[イギリス陸軍]]第8軍第2師団(ニュージーランド軍)も翌日到着し、トリエステ駐留の[[ドイツ陸軍 (国防軍)|ドイツ陸軍]]はイギリス陸軍に降伏した。1945年6月12日、ユーゴスラビア軍はトリエステ市内から撤退し、北部地域はイギリス軍、南部地域はユーゴスラビア軍が占領する暫定的協定が結ばれた。 |
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交渉が続いていたが、[[1947年]]1月10日には[[国際連合安全保障理事会]]において[[国際連合安全保障理事会決議16]]が採択、トリエステ自由地域の設置が承認された。1947年2月10日、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]とイタリアとの間に[[イタリア平和条約|平和条約]]が締結され、 |
交渉が続いていたが、[[1947年]]1月10日には[[国際連合安全保障理事会]]において[[国際連合安全保障理事会決議16]]が採択、トリエステ自由地域の設置が承認された。1947年2月10日、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]とイタリアとの間に[[イタリア平和条約|平和条約]]が締結され、'''トリエステ自由地域'''が誕生した。しかし、英米軍が統治する'''A地区'''(面積222.5km²、人口26万2406人)とユーゴスラビア軍が統治する'''B地区'''(面積515.5km²、人口7万1000人)に分割された。トリエステ自由地域の[[通貨]]と[[切手]]を独自に発行したものの、A・B両地区の分断状況は年々深まるばかりであり、真の「自由地域」とは言えない状況であった。 |
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2012年9月22日 (土) 11:15時点における版
- トリエステ自由地域
- Territorio libero di Trieste(イタリア語)
Svobodno tržaško ozemlje(スロベニア語)
Slobodni teritorij Trsta(クロアチア語) -
← 1947年 - 1954年 →
→(国旗) (国章) -
公用語 イタリア語、スロベニア語、クロアチア語 首都 トリエステ 通貨 トリエステ・リラ
トリエステ自由地域(トリエステじゆうちいき、イタリア語: Territorio libero di Trieste、スロベニア語: Svobodno tržaško ozemlje、クロアチア語: Slobodni teritorij Trsta)は、第二次世界大戦後の1947年、中央ヨーロッパにおける戦略的要衝であったトリエステ地域の帰属問題をとりあえず棚上げするために設置された地域。イタリアとユーゴスラビアの間に所在し、トリエステ市を含む北部地域(A地区)と、イストリア半島の一部を含む南部地域(B地区)で構成されていた。
歴史
1945年5月1日、ユーゴスラビア陸軍第4軍スロベニア第9軍団がトリエステに殺到した。また、イギリス陸軍第8軍第2師団(ニュージーランド軍)も翌日到着し、トリエステ駐留のドイツ陸軍はイギリス陸軍に降伏した。1945年6月12日、ユーゴスラビア軍はトリエステ市内から撤退し、北部地域はイギリス軍、南部地域はユーゴスラビア軍が占領する暫定的協定が結ばれた。
交渉が続いていたが、1947年1月10日には国際連合安全保障理事会において国際連合安全保障理事会決議16が採択、トリエステ自由地域の設置が承認された。1947年2月10日、連合国とイタリアとの間に平和条約が締結され、トリエステ自由地域が誕生した。しかし、英米軍が統治するA地区(面積222.5km²、人口26万2406人)とユーゴスラビア軍が統治するB地区(面積515.5km²、人口7万1000人)に分割された。トリエステ自由地域の通貨と切手を独自に発行したものの、A・B両地区の分断状況は年々深まるばかりであり、真の「自由地域」とは言えない状況であった。
その間にもイタリア系住民は、B地区からA地区またはイタリア本国に逃亡しつつあった。最終的にB地区に残ったイタリア系住民は1万4000人であった。
1954年、イタリアとユーゴスラビアとの間で協定が結ばれ、A地区の統治をイタリアに、B地区の統治をユーゴスラビアに委ねることになった。そして1975年のオージモ条約で正式に分割が承認された。
1991年から1992年にかけてスロベニアとクロアチアが独立すると、B地区は更にドラゴニャ川を境として南北に分割され、北半分がスロベニア領、南半分がクロアチア領となった。この際、スロベニアとクロアチアの間では、ピラン湾を巡る新たな領有権問題が浮上し、2011年現在も解決されていない。
関連項目
- ユーゴスラビア人民解放戦争
- ピラン湾: クロアチアとスロベニアの間で領有権問題がある。