「ジェイムズ・スコット (初代モンマス公爵)」の版間の差分
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母と死に別れ、[[1663年]]に14歳のジェームズはイングランドへ渡り父の元に名乗り出た。美男で聡明だったというジェームズにチャールズ2世は早速モンマス公・ドンカスター伯・タインデイル男爵という称号を与え、自分の子として認知する(一旦認知すると、食いはぐれずに済むよう称号と領地を与えるのがチャールズ2世の常だった)。なおかつ、資産家として有名なバクルー伯爵家の女子相続人[[アン・スコット (初代バクルー公爵夫人)|アン・スコット]]とジェームズを結婚させ、ジェームズを[[イングランド貴族]]のバクルー公、アンを[[スコットランド貴族]]のバクルー公とした。 |
母と死に別れ、[[1663年]]に14歳のジェームズはイングランドへ渡り父の元に名乗り出た。美男で聡明だったというジェームズにチャールズ2世は早速モンマス公・ドンカスター伯・タインデイル男爵という称号を与え、自分の子として認知する(一旦認知すると、食いはぐれずに済むよう称号と領地を与えるのがチャールズ2世の常だった)。なおかつ、資産家として有名なバクルー伯爵家の女子相続人[[アン・スコット (初代バクルー公爵夫人)|アン・スコット]]とジェームズを結婚させ、ジェームズを[[イングランド貴族]]のバクルー公、アンを[[スコットランド貴族]]のバクルー公とした。 |
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[[1665年]]、叔父の[[ヨーク公]]ジェームズ(後の[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]])指揮下で第二次[[英蘭戦争]]を戦ってから功績を重ね、[[オランダ侵略戦争]]にも参戦、1674年にはアルベマール公[[ジョージ・マンク (初代アルベマール公)|ジョージ・マンク]]亡き後の大将軍になるなど軍人として昇進を重ねていった。また、モンマスは[[プロテスタント]]であったため[[カトリック教会|カトリック]]のヨーク公をしのぐ人気があり、次の王位を望む声が多かったが、チャールズ2世は頑としてモンマスを嫡子とすることを拒否した。数多くの愛妾を持ったが、王妃[[キャサリン・オブ・ブラガンザ]]を終生王妃として扱ったように、嫡子と庶子を明確に分けたのである。加えて、オランダ時代のルーシーは奔放な女性で、チャールズ2世以外の男性とも関係があった。モンマスが本当にチャールズ2世との子かどうか疑う声もあったのである。 |
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オランダ侵略戦争終結後は[[シャフツベリ伯爵]][[アントニー・アシュリー=クーパー (初代シャフツベリ伯爵)|アントニー・アシュリー=クーパー]]ら急進派の[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]と組んでヨーク公の王位継承権を剥奪する[[王位排除法案]]の成立を図ったり、人気取りのため[[1679年]]のスコットランド反乱鎮圧やイングランド巡幸を度々行ったりしている。しかし、こうした行動は父の不興を買い1679年に一時オランダへ退去、同年末に帰国したが[[1683年]]の[[ライハウス陰謀事件]]で名前が出たため再びオランダへ亡命した。オランダでは従弟に当たる[[オランダ総督]][[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィレム3世]](後のウィリアム3世)・[[メアリー2世 (イングランド女王)|メアリー]](後のメアリー2世)夫妻からの歓待を受けて生活していた。 |
オランダ侵略戦争終結後は[[シャフツベリ伯爵]][[アントニー・アシュリー=クーパー (初代シャフツベリ伯爵)|アントニー・アシュリー=クーパー]]ら急進派の[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]と組んでヨーク公の王位継承権を剥奪する[[王位排除法案]]の成立を図ったり、人気取りのため[[1679年]]のスコットランド反乱鎮圧やイングランド巡幸を度々行ったりしている。しかし、こうした行動は父の不興を買い1679年に一時オランダへ退去、同年末に帰国したが[[1683年]]の[[ライハウス陰謀事件]]で名前が出たため再びオランダへ亡命した。オランダでは従弟に当たる[[オランダ総督]][[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィレム3世]](後のウィリアム3世)・[[メアリー2世 (イングランド女王)|メアリー]](後のメアリー2世)夫妻からの歓待を受けて生活していた。 |
2012年9月14日 (金) 03:07時点における版
ジェームズ・スコット(James Scott, 1st Duke of Monmouth and of Buccleuch, KG, PC, 1649年4月9日 - 1685年7月15日)は、イングランドの貴族・軍人。初代モンマス公(マンマス公とも)、初代バクルー公。
生涯
当時イングランド王太子だったチャールズ2世と愛妾ルーシー・ウォルターの子として、オランダのロッテルダムで生まれた。生まれた時は養育した貴族の姓にちなみジェームズ・クロフツという名前がつけられた。当時チャールズ2世は亡命中の身で、ルーシーからジェームズを引き取ることができなかった。この時期にチャールズ2世がルーシーと正式に結婚していたと主張する一派から、後年ジェームズは後継者に祭り上げられることになる。
母と死に別れ、1663年に14歳のジェームズはイングランドへ渡り父の元に名乗り出た。美男で聡明だったというジェームズにチャールズ2世は早速モンマス公・ドンカスター伯・タインデイル男爵という称号を与え、自分の子として認知する(一旦認知すると、食いはぐれずに済むよう称号と領地を与えるのがチャールズ2世の常だった)。なおかつ、資産家として有名なバクルー伯爵家の女子相続人アン・スコットとジェームズを結婚させ、ジェームズをイングランド貴族のバクルー公、アンをスコットランド貴族のバクルー公とした。
1665年、叔父のヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)指揮下で第二次英蘭戦争を戦ってから功績を重ね、オランダ侵略戦争にも参戦、1674年にはアルベマール公ジョージ・マンク亡き後の大将軍になるなど軍人として昇進を重ねていった。また、モンマスはプロテスタントであったためカトリックのヨーク公をしのぐ人気があり、次の王位を望む声が多かったが、チャールズ2世は頑としてモンマスを嫡子とすることを拒否した。数多くの愛妾を持ったが、王妃キャサリン・オブ・ブラガンザを終生王妃として扱ったように、嫡子と庶子を明確に分けたのである。加えて、オランダ時代のルーシーは奔放な女性で、チャールズ2世以外の男性とも関係があった。モンマスが本当にチャールズ2世との子かどうか疑う声もあったのである。
オランダ侵略戦争終結後はシャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー=クーパーら急進派のホイッグ党と組んでヨーク公の王位継承権を剥奪する王位排除法案の成立を図ったり、人気取りのため1679年のスコットランド反乱鎮圧やイングランド巡幸を度々行ったりしている。しかし、こうした行動は父の不興を買い1679年に一時オランダへ退去、同年末に帰国したが1683年のライハウス陰謀事件で名前が出たため再びオランダへ亡命した。オランダでは従弟に当たるオランダ総督ウィレム3世(後のウィリアム3世)・メアリー(後のメアリー2世)夫妻からの歓待を受けて生活していた。
1685年に父が没してヨーク公がジェームズ2世が即位すると、スコットランド貴族のアーガイル伯アーチボルド・キャンベルと共に反乱を起こしジェームズ2世の即位阻止に動くが、アーガイル伯は6月に捕らえられ処刑、モンマスも7月6日のセッジムーアの戦いで完敗。自ら出頭したモンマスは7月15日にタワー・ヒルで断頭刑にされジャック・ケッチにより処刑された。
モンマスの刑死により、モンマス公位とイングランド貴族のバクルー公位は没収された。しかし、公妃アン・スコットが自らの権利として保持していたスコットランド貴族のバクルー公位とバクルー伯爵家が元来持っていた称号の継続が認められたため、アンの死後に孫のフランシス・スコットがバクルー公位を継ぎ、現在もこの家系は継続している。
ジェームズ2世は甥を刑死させるのに忍びず、彼を死ぬまで監禁させたという説がある。顔が知られないよう鉄の仮面を被せ、フランスへ連れて行かれたというものである(鉄仮面)。
参考文献
関連項目
公職 | ||
---|---|---|
先代 バッキンガム公 |
主馬頭 1674年 - 1679年 |
次代 リッチモンド公 |
司法職 | ||
先代 オックスフォード伯 |
巡回裁判官 南トレント 1673年 - 1679年 |
次代 チェスターフィールド伯 |
名誉職 | ||
先代 ベラシーズ男爵 |
イースト・ライディング・オブ・ヨークシャー統監 1673年 - 1679年 |
次代 マルグレイヴ伯 |
先代 ブルック男爵 |
スタッフォードシャー統監 1677年 - 1679年 |
次代 サンダーランド伯 |
先代 パジェット男爵 |
スタッフォードシャー治安判事 1678年 - 1680年 | |
イングランドの爵位 | ||
先代 新設 |
モンマス公 1663年 - 1685年 |
次代 消滅 |