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少年の頃に[[出家]]し、[[玄学]]にすぐれていた。
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[[大宝 (日本)|大宝]]2年([[702年]])留学僧として[[遣唐使]]に加わり入唐。唐では、[[囲碁]]を能くするとして、まだ[[皇子]]であった[[玄宗 (唐)|李隆基]]によってたびたび賞遇された。その後、[[還俗]]し、唐人の女性と婚姻したと想定され、息子の秦朝慶と秦朝元を儲けている。秦朝元は遣唐使とともに来日したが、弁正と秦朝慶は唐の地で没した。
[[大宝 (日本)|大宝]]2年([[702年]])留学僧として[[遣唐使]]に加わり入唐。唐では、[[囲碁]]を能くするとして、まだ[[皇子]]であった[[玄宗 (唐)|李隆基]](玄宗)によってたびたび賞遇された。その後、[[還俗]]し、唐人の女性と婚姻したと想定され、息子の秦朝慶と秦朝元を儲けている。秦朝元は遣唐使とともに来日したが、弁正と秦朝慶は唐の地で没した。


『[[懐風藻]]』に弁正による[[漢詩]]が残っている。また、[[故宮博物館]]に収蔵されている『明皇会棋図』は李隆基と弁正の対局をテーマにした作品であるという説がある。
『[[懐風藻]]』に弁正による[[漢詩]]が残っている。また、[[故宮博物館]]に収蔵されている『明皇会棋図』は李隆基と弁正の対局をテーマにした作品であるという説がある。

2012年6月16日 (土) 17:04時点における版

弁正(べんせい、生没年不詳)は奈良時代。秦牛万呂の子。子に秦朝慶・秦朝元がいる。

生涯

少年の頃に出家し、玄学にすぐれていた。

大宝2年(702年)留学僧として遣唐使に加わり入唐。唐では、囲碁を能くするとして、まだ皇子であった李隆基(玄宗)によってたびたび賞遇された。その後、還俗し、唐人の女性と婚姻したと想定され、息子の秦朝慶と秦朝元を儲けている。秦朝元は遣唐使とともに来日したが、弁正と秦朝慶は唐の地で没した。

懐風藻』に弁正による漢詩が残っている。また、故宮博物館に収蔵されている『明皇会棋図』は李隆基と弁正の対局をテーマにした作品であるという説がある。