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*『歴史紀行 安芸吉川氏』 中国新聞社
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2012年3月3日 (土) 09:08時点における版

 
吉川朝経
時代 鎌倉時代
生誕 平家方:養和2年、寿永元年/源氏方:治承6年(1182年
死没 延応2年/仁治元年(1240年
改名 経兼→朝経
戒名 法名:常全
官位 左衛門尉
主君 鎌倉幕府
氏族 藤原南家工藤流吉川氏
父母 父:吉川友兼 母:不詳
船越維定
経光
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吉川 朝経(きっかわ ともつね)は、鎌倉時代武士

生涯

正治2年(1200年)の梶原景時一族追討(梶原景時の変)の際に父の友兼を失うも、亡父の功と本人の功を讃えられて加増され、梶原氏の所領であった播磨国福井荘の地頭に任ぜられた。

延応2年/仁治元年(1240年)に死去。

嫡男である経光とは生年がわずか10年しか変わらないため、兄弟もしくは親戚筋からの養子の可能性もある。

参考資料

  • 北広島町史
  • 『歴史紀行 安芸吉川氏』 中国新聞社

関連項目

先代
吉川友兼
駿河吉川氏歴代当主
1185~現在
次代
吉川経光