「私娼」の版間の差分
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日本における私娼の歴史は、必ずしも明らかではない。[[奈良時代]]、天平年間に遊行女なるものがあったことが知られ、これを私娼とする向きがある。『[[万葉集]]』には、太宰帥大伴卿が都に上るときに卿に侍した遊行女、児島の、「やまと路は雲かくれたりしかれどもわがふる袖をながしと思ふな」という歌もある。 |
日本における私娼の歴史は、必ずしも明らかではない。[[奈良時代]]、[[天平]]年間に遊行女なるものがあったことが知られ、これを私娼とする向きがある。『[[万葉集]]』には、太宰帥大伴卿が都に上るときに卿に侍した遊行女、児島の、「やまと路は雲かくれたりしかれどもわがふる袖をながしと思ふな」という歌もある。のちに娼婦は遊行女のほかに、[[白拍子]]、[[遊女]]、傾城、傀儡女などに分かれたが、[[鎌倉時代]]は遊女と呼ばれるようになった。 |
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のちに娼婦は遊行女のほかに、[[白拍子]]、[[遊女]]、傾城、傀儡女などに分かれたが、[[鎌倉時代]]は遊女と呼ばれるようになった。 |
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それまでは売春はいわば[[自由業]]で、取締などが行われた形跡がみえないが、建久4年に、遊女屋および遊女を取り締まるために、[[源頼朝]]が[[里見義成]]を遊女別当を命じ、諸国に散在する娼婦の訴願を取りさばかせたことが史実に見える。 |
それまでは売春はいわば[[自由業]]で、取締などが行われた形跡がみえないが、[[建久]]4年([[1193年]])に、遊女屋および遊女を取り締まるために、[[源頼朝]]が[[里見義成]]を遊女別当を命じ、諸国に散在する娼婦の訴願を取りさばかせたことが史実に見える。 |
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[[豊臣秀吉|豊臣時代]]、[[天正]]15年([[1587年]])、[[京都]][[柳の馬場]]に[[遊郭]]が設けられ、ここに公娼の営業形態が[[散娼]]から[[集娼]]へと改められはじめた。 |
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[[江戸時代]]、麹町道三町、麹町八丁目、神田鎌倉海岸、京橋柳橋に[[遊女屋]]が営まれた。[[江戸幕府]]は、散在する遊女屋を特定地域に集合させるために、[[元和]]3年([[1617年]])、日本橋葺屋町界隈に遊郭の設置を許可し、ここを「吉原」と命名した。ここに、公娼と私娼とを区別する公法上の体制が整った。[[吉原遊郭]]のほかで売春を行う娼婦を淫売女と称し、要するに公許の場所以外で売春を行う娼婦は私娼である。 |
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[[明治維新]]ののち、[[明治]]6年([[1873年]])12月、公娼取締規則が施行された。ここに[[警保局|警保寮]]から貸座敷渡世規則と娼妓渡世規則が発令された。娼妓以外で売春をなす者は取締り、処罰された。臨時的娼婦はもちろんのこと、職業的娼婦であっても、娼妓でなければ私娼である。 |
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2012年1月15日 (日) 12:11時点における版
私娼(ししょう)は、娼婦に公に営業の許可をあたえる制度がある場合、娼婦のうち、公の営業許可を得ていない娼婦をいう。公(おおやけ)に営業を許された公娼に対する。
日本における私娼
日本における私娼の歴史は、必ずしも明らかではない。奈良時代、天平年間に遊行女なるものがあったことが知られ、これを私娼とする向きがある。『万葉集』には、太宰帥大伴卿が都に上るときに卿に侍した遊行女、児島の、「やまと路は雲かくれたりしかれどもわがふる袖をながしと思ふな」という歌もある。のちに娼婦は遊行女のほかに、白拍子、遊女、傾城、傀儡女などに分かれたが、鎌倉時代は遊女と呼ばれるようになった。
それまでは売春はいわば自由業で、取締などが行われた形跡がみえないが、建久4年(1193年)に、遊女屋および遊女を取り締まるために、源頼朝が里見義成を遊女別当を命じ、諸国に散在する娼婦の訴願を取りさばかせたことが史実に見える。
足利氏は大永8年(1528年)、傾城局をもうけ、竹内新次郎を公事に任じ、娼婦から税金を徴収した。
豊臣時代、天正15年(1587年)、京都柳の馬場に遊郭が設けられ、ここに公娼の営業形態が散娼から集娼へと改められはじめた。
江戸時代、麹町道三町、麹町八丁目、神田鎌倉海岸、京橋柳橋に遊女屋が営まれた。江戸幕府は、散在する遊女屋を特定地域に集合させるために、元和3年(1617年)、日本橋葺屋町界隈に遊郭の設置を許可し、ここを「吉原」と命名した。ここに、公娼と私娼とを区別する公法上の体制が整った。吉原遊郭のほかで売春を行う娼婦を淫売女と称し、要するに公許の場所以外で売春を行う娼婦は私娼である。
明治維新ののち、明治6年(1873年)12月、公娼取締規則が施行された。ここに警保寮から貸座敷渡世規則と娼妓渡世規則が発令された。娼妓以外で売春をなす者は取締り、処罰された。臨時的娼婦はもちろんのこと、職業的娼婦であっても、娼妓でなければ私娼である。