「オーラヴ5世 (ノルウェー王)」の版間の差分
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2012年1月2日 (月) 20:36時点における版
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在位 | 1957年9月21日 - 1991年1月17日 |
出生 |
1903年7月2日 |
死去 |
1991年1月17日(87歳没) |
埋葬 |
1991年1月30日 ノルウェー、オスロ、アーケシュフース城 |
子女 |
ラグンヒル アストリッド ハーラル5世 |
父親 | ホーコン7世 |
母親 | マウド・アヴ・ストールブリタニア |
オーラヴ5世(Olav V,1903年7月2日 - 1991年1月17日)は、ノルウェー国王(在位:1957年 - 1991年)。
生涯
当時デンマーク王子カールであったホーコン7世と、イギリス王エドワード7世の娘モードの長男としてイギリスで生まれ、アレクサンデル・エドヴァルド・クリスチャン・フレゼリク(Alexander Edward Christian Frederik)と名付けられた。1905年に父がノルウェー王に選ばれ、ノルウェー風にホーコンと改名した際に、同じくノルウェー風にオーラヴと改名された。以後オーラヴは第1王位継承権者としてノルウェーで育てられた。
1924年にノルウェー陸軍士官学校を卒業した後、オックスフォード大学ベリオール・カレッジで法律学と経済学を学んだ。1929年にスウェーデン国王オスカル2世の三男ヴェステルイェートランド公カールの次女で、父方の従姉にあたるマッタと結婚した。2人の間にはラグンヒル、アストリッド、ハーラル5世と1男2女が生まれた。
オーラヴ5世はアスリートとしても知られ、1928年のアムステルダムオリンピックではセーリングで金メダルを獲得している。また、スキージャンプも行っていた。
第二次世界大戦中は父王とともにイギリスに亡命しつつナチス・ドイツに抵抗し、ノルウェーの解放後に帰国した。1957年、父の死去により王位を継承した。王になった後はその誠実な性格から「国民の王」として庶民から愛された。国王であるのにもかかわらずオーラヴ5世は自分で車を運転する事を好み、自分で公道を運転してスキー場に向かう姿などが良く見かけられた。
しかし1973年のオイルショック危機の時、特定の週末は運転が禁止と定められてしまった。王族であるオーラヴ5世はそれらの週末でも運転する事ができたものの王は国民の模範でないといけないと信じていたため運転禁止期間中にスキー場に向かう時は普通の国民と同じようにスキーウェアを着用し、スキー板を自分の肩に担ぎ、ノルウェーの公共鉄道に乗車してスキー場に向かった。オーラヴ5世はそう言う時もボディガードをつけない事で知られており、後に「なぜ、警護をつけないのですか?」とマスコミに問われた時「彼には400万人のボディガード(当時のノルウェーの人口、すなわちノルウェー国民全員)がいたからね」と誇らしく答えた。
スキー界の発展に影響を及ぼした人物として1968年、ホルメンコーレン・メダルを受章した。
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