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[[紀州藩]]の家臣・[[渡辺泰綱]]の男。正室は[[堀親賢]]の娘。子に[[有馬氏房]](次男)、娘([[有馬光隆]]正室のち[[黒田直亨]]正室)、娘(倉橋久知室)。養子は有馬光隆、[[有馬氏恒]]。官位は従五位下、[[備後国|備後]]守。
[[紀州藩]]の家臣・[[渡辺泰綱]]の男。正室は[[堀親賢]]の娘。子に[[有馬氏房]](次男)、娘([[有馬光隆]]正室のち[[黒田直亨]]正室)、娘(倉橋久知室)。養子は有馬光隆、[[有馬氏恒]]。官位は従五位下、[[備後国|備後]]守。


初代藩主・[[有馬氏倫]]の養嗣子となって[[徳川吉宗]]に仕え、[[享保]]20年([[1735年]])の氏倫の死去により後を継いで藩主となった。[[元文]]5年([[1740年]])には[[大番頭]]となる。[[宝暦]]8年([[1758年]])に大番頭を辞し、翌年6月2日に家督を養嗣子の氏恒に譲って隠居した。最初に養子とした光隆は、[[寛延]]2年([[1749年]])に廃嫡している。明和8年(1771年)2月26日、73歳で死去。法号:賢道。
初代藩主・[[有馬氏倫]]の養嗣子となって[[徳川吉宗]]に仕え、[[享保]]20年([[1736年]])1月に氏倫の死去により後を継いで藩主となった。[[元文]]5年([[1740年]])には[[大番頭]]となる。[[宝暦]]8年([[1758年]])に大番頭を辞し、翌年6月2日に家督を養嗣子の氏恒に譲って隠居した。最初に養子とした光隆は、[[寛延]]2年([[1749年]])に廃嫡している。明和8年(1771年)2月26日、73歳で死去。法号:賢道。


{{伊勢西条藩主|2代|1735-1759}}
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2011年6月20日 (月) 16:36時点における版

有馬 氏久(ありま うじひさ、元禄12年(1699年) - 明和8年2月26日1771年4月10日))は、江戸時代大名伊勢西条藩の第2代藩主。氏倫系有馬家2代。

紀州藩の家臣・渡辺泰綱の男。正室は堀親賢の娘。子に有馬氏房(次男)、娘(有馬光隆正室のち黒田直亨正室)、娘(倉橋久知室)。養子は有馬光隆、有馬氏恒。官位は従五位下、備後守。

初代藩主・有馬氏倫の養嗣子となって徳川吉宗に仕え、享保20年(1736年)1月に氏倫の死去により後を継いで藩主となった。元文5年(1740年)には大番頭となる。宝暦8年(1758年)に大番頭を辞し、翌年6月2日に家督を養嗣子の氏恒に譲って隠居した。最初に養子とした光隆は、寛延2年(1749年)に廃嫡している。明和8年(1771年)2月26日、73歳で死去。法号:賢道。