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[[1919年]](大正8年)、雑誌『少女号』に詩が掲載され、曲としては[[1923年]](大正12年)に発売された『[[子供達の歌]] 第3集』が初出。[[2007年]](平成19年)に「[[日本の歌百選]]」に選ばれた。 |
[[1919年]](大正8年)、雑誌『少女号』に詩が掲載され、曲としては[[1923年]](大正12年)に発売された『[[子供達の歌]] 第3集』が初出。[[2007年]](平成19年)に「[[日本の歌百選]]」に選ばれた。 |
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歌詞は[[端午|端午の節句]]に[[身長|背丈]]を計ってもらった子供の視点で書かれている。これは海野の17歳年下の末弟、春樹の視点から描いていると言われ、「兄さん」が海野である。柱の傷が'''「一昨年」'''なのは、'''「昨年」'''は海野が[[東京]]におり([[早稲田大学]]に在学)、[[静岡県]](現静岡市駿河区曲金二丁目)の実家に帰って来られず、弟の背丈を計ってやることができなかったからである。実家に帰れなかった理由は諸説がある。「やっと羽織の紐のたけ」は一昨年からの背丈の伸びが羽織の紐の長さと同じぐらいだとする説が有力だが、背丈自体が大学生の兄(海野)の羽織の紐を結んだ高さとする異説もある。2番の歌詞は、実家が静岡なので[[富士山]]が登場し、弟が自分の背丈と比較しているのである。 |
歌詞は[[端午|端午の節句]]に[[身長|背丈]]を計ってもらった子供の視点で書かれている。これは海野の17歳年下の末弟、春樹の視点から描いていると言われ、「兄さん」が海野である。柱の傷が'''「一昨年」'''なのは、'''「昨年」'''は海野が[[東京]]におり([[早稲田大学]]に在学)、[[静岡県]](現静岡市駿河区曲金二丁目)の実家に帰って来られず、弟の背丈を計ってやることができなかったからである。実家に帰れなかった理由は諸説がある。「やっと羽織の紐のたけ」は一昨年からの背丈の伸びが羽織の紐の長さと同じぐらいだとする説が有力だが、背丈自体が大学生の兄(海野)の羽織の紐を結んだ高さとする異説もある。2番の歌詞は、実家が静岡なので[[富士山]]が登場し、弟が自分の背丈と比較しているのである。「やっと羽織の紐のたけ」の第3説として、自分の背丈が2年の間に倍近く大きく伸びたことを象徴的に表現したものでないかと思う。 |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
2011年5月5日 (木) 01:30時点における版
『背くらべ』(せいくらべ、脊くらべとも)は、童謡。作詞・海野厚、作曲・中山晋平。
歌詞
- 柱のきずは おととしの
五月五日の 背くらべ
粽(ちまき)たべたべ 兄さんが
計つてくれた 背のたけ
きのふくらべりゃ 何(なん)のこと
やつと羽織の 紐(ひも)のたけ - 柱に凭(もた)れりゃ すぐ見える
遠いお山も 背くらべ
雲の上まで 顔だして
てんでに背伸(せのび) してゐても
雪の帽子を ぬいでさへ
一はやつぱり 富士の山
概要
1919年(大正8年)、雑誌『少女号』に詩が掲載され、曲としては1923年(大正12年)に発売された『子供達の歌 第3集』が初出。2007年(平成19年)に「日本の歌百選」に選ばれた。
歌詞は端午の節句に背丈を計ってもらった子供の視点で書かれている。これは海野の17歳年下の末弟、春樹の視点から描いていると言われ、「兄さん」が海野である。柱の傷が「一昨年」なのは、「昨年」は海野が東京におり(早稲田大学に在学)、静岡県(現静岡市駿河区曲金二丁目)の実家に帰って来られず、弟の背丈を計ってやることができなかったからである。実家に帰れなかった理由は諸説がある。「やっと羽織の紐のたけ」は一昨年からの背丈の伸びが羽織の紐の長さと同じぐらいだとする説が有力だが、背丈自体が大学生の兄(海野)の羽織の紐を結んだ高さとする異説もある。2番の歌詞は、実家が静岡なので富士山が登場し、弟が自分の背丈と比較しているのである。「やっと羽織の紐のたけ」の第3説として、自分の背丈が2年の間に倍近く大きく伸びたことを象徴的に表現したものでないかと思う。