「第1コンスル」の版間の差分
編集の要約なし |
|||
12行目: | 12行目: | ||
古代ローマには、政府の長として2人の[[執政官|コンスル]]が置かれた。コンスルは[[元老院 (ローマ)|元老院]]を含む共和国を運営し、軍隊の最高指揮官でもある。2人のコンスルは同等の権威を持っており、互いに[[拒否権]]を行使することもできた。これは独裁を予防するための仕組みである。そして、非常時には元老院は1人の[[独裁官|ディクタトル]]を6ヶ月の任期を限って指名することができた。 |
古代ローマには、政府の長として2人の[[執政官|コンスル]]が置かれた。コンスルは[[元老院 (ローマ)|元老院]]を含む共和国を運営し、軍隊の最高指揮官でもある。2人のコンスルは同等の権威を持っており、互いに[[拒否権]]を行使することもできた。これは独裁を予防するための仕組みである。そして、非常時には元老院は1人の[[独裁官|ディクタトル]]を6ヶ月の任期を限って指名することができた。 |
||
[[フランス第一共和政|第1共和政]]の崩壊により作られたフランスのシステムは、コンスルが2名から3名になった点以外は古代ローマの制度に類似していた。しかし、やがて3人の中で最も野心的でカリスマ性を持つナポレオンが頭角を現すこととなる。[[住民投票|国民投票]]で彼は'''終身第1コンスル'''に選出された。この選出は任期の点以外では古代ローマのディクタトルの指名に類似するものである。最終的に1804年にナポレオンは[[フランス第一帝政|フランス皇帝]]となることを宣言して、フランスに君臨することになった。 |
[[フランス第一共和政|第1共和政]]の崩壊により作られたフランスのシステムは、コンスルが2名から3名になった点以外は古代ローマの制度に類似していた。しかし、やがて3人の中で最も野心的でカリスマ性を持つナポレオンが頭角を現すこととなる。[[住民投票|国民投票]]で彼は'''終身第1コンスル'''に選出された。この選出は任期の点以外では古代ローマの[[独裁官|ディクタトル]]の指名に類似するものである。最終的に1804年にナポレオンは[[フランス第一帝政|フランス皇帝]]となることを宣言して、フランスに君臨することになった。 |
||
==他のコンスル== |
==他のコンスル== |
2011年2月20日 (日) 10:51時点における版
第1コンスル(だいいちコンスル、仏:Premier Consul)あるいは第1執政(だいいちしっせい)または第1統領(だいいちとうりょう)は、ナポレオン・ボナパルトによりフランスの権力奪取の後用いられた肩書きである。当初は同じ権限を持つ3人のコンスルが置かれた。
1799年11月9日のブリュメールのクーデターの後、ナポレオンとエマニュエル=ジョゼフ・シエイエスによって設立された執政政府(統領政府、Le Consulat, 1799年 - 1804年)に3人のコンスルが置かれた。当初、3人のコンスルは同じ権限を持つとされたが、やがてナポレオンが3人の中の最強の者となった。
言葉の歴史
コンスルという言葉は、自分自身を古代ローマの支配者になぞらえようとするボナパルトの計画の一部として用いられた。後に、彼はエトワール凱旋門などの古代ローマ様式の凱旋門や記念碑の構築により、ローマとのつながりを強めることになる。
古代ローマには、政府の長として2人のコンスルが置かれた。コンスルは元老院を含む共和国を運営し、軍隊の最高指揮官でもある。2人のコンスルは同等の権威を持っており、互いに拒否権を行使することもできた。これは独裁を予防するための仕組みである。そして、非常時には元老院は1人のディクタトルを6ヶ月の任期を限って指名することができた。
第1共和政の崩壊により作られたフランスのシステムは、コンスルが2名から3名になった点以外は古代ローマの制度に類似していた。しかし、やがて3人の中で最も野心的でカリスマ性を持つナポレオンが頭角を現すこととなる。国民投票で彼は終身第1コンスルに選出された。この選出は任期の点以外では古代ローマのディクタトルの指名に類似するものである。最終的に1804年にナポレオンはフランス皇帝となることを宣言して、フランスに君臨することになった。
他のコンスル
- 第2コンスル:ジャン=ジャック・レジ・ド・カンバセレス
- 第3コンスル:シャルル=フランソワ・ルブラン
関連項目
- 執政官(コンスル)