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2011年2月18日 (金) 10:35時点における版

ナッサウ=ジーゲン伯ヨハン7世

ヨハン7世(Johann VII., 1561年6月7日 - 1623年9月27日)は、ナッサウ=ジーゲン伯およびフロイデンベルク伯。オラニエ公ウィレム1世の弟ナッサウ=ディレンブルク伯ヨハン6世と最初の妻エリーザベト・フォン・ロイヒテンベルクの次男。オランダではヤン・デ・ミッデルステ(Jan de Middelste)と呼ばれる。

従弟であるマウリッツ・ファン・ナッサウに協力して、オランダ共和国軍に近代的な軍事教練を行った。軍事理論家であり、またジーゲンにヨーロッパで最初の士官学校を設けたことでも知られる。 1620年にヨハン7世はスウェーデングスタフ・アドルフの訪問を受けている。ヨハン7世はグスタフ・アドルフに軍事理論の指南を行い実践させた。彼の軍事理論は、オランダの軍事改革と共にドイツやスウェーデンに浸透させたと言える。

1581年ヴァルデック伯フィリップ4世の娘マグダレーナ(1558年 - 1599年)と結婚し、12子をもうけた。のち、ゾンダーブルク公ヨハンデンマーク王クリスチャン3世の三男、グリュックスブルク家アウグステンブルク家の祖)の娘マルガレータと結婚し、ヨハン・マウリッツら13子をもうけた。