「管理通貨制度」の版間の差分
C:CITE分類、日付は履歴から |
編集の要約なし |
||
1行目: | 1行目: | ||
[[ファイル:Components of the United States money supply2.svg|thumb|米国のマネーサプライ推移<br>通貨当局は金保有量にかかわらず通貨供給量を増減させることが出来る。]] |
|||
{{出典の明記|date=2009年9月}} |
|||
'''管理通貨制度'''(かんりつうかせいど)とは、[[ |
'''管理通貨制度'''(かんりつうかせいど)とは、[[通貨]]の発行量を[[通貨当局]]が恣意的に調節することで、物価の安定、経済成長、雇用の改善、国際収支の安定などを図る制度。[[本位制度]]に対していう。 |
||
== 概要 == |
|||
⚫ | |||
[[金]]を貨幣価値の裏付けとする[[金本位制]]においては、[[銀行券]]発行量は[[正貨]]準備高に拘束されるのに対し、管理通貨制度では貨幣の価値は政府または[[中央銀行]]の信用によって裏付けされるため、その価値は不安定となりやすい。よって通貨当局は[[金融政策]]により貨幣価値の安定化を図ることを重視する。 |
|||
⚫ | |||
⚫ | |||
== 歴史 == |
|||
⚫ | 金本位による国際決済は戦争によりしばしば中断されることがあり、とりわけ19世紀にはロンドンが |
||
[[ファイル:One dollar 1928.jpg|thumb|金本位制度下の1ドル[[兌換紙幣]]([[1928年]])。]] |
|||
⚫ | |||
⚫ | 金本位による国際決済は戦争によりしばしば中断されることがあり、とりわけ[[19世紀]]には[[ロンドン]]が主要国にとって国際決済の中心であった事から、[[第一次世界大戦]]の発生により金本位の中断を余儀なくされた。例えば日本は[[1913年]]12月末の時点で[[日本銀行|日銀]][[正貨]]準備は1億3千万円、在外正貨2億4,600万円であり、在外正貨はすべてロンドンにあった。また外貨決済の8〜9割をロンドンで行っていたが、[[第一次世界大戦|第一次大戦]]が始まる[[1914年]]の8月には手形輸送が途絶し(当時は[[シベリア鉄道]]で輸送していた)、ロンドンの金融機関が活動を停止するなど混乱した。大戦終結にともない[[1919年]]にアメリカが、[[1925年]]にはイギリスが金本位制に復帰した。 |
||
⚫ | 第一次世界大戦の前後から金(本位金)は経済力の格差からアメリカに集まり、アメリカでは国内で過剰となっ |
||
⚫ | 第一次世界大戦の前後から金(本位金)は経済力の格差からアメリカに集まり、アメリカでは国内で正貨が過剰となって[[インフレ]]が昂進したことから、通貨準備から金の一部をはずす[[不胎化介入|不胎化政策]]をとった結果、金本位制の持つ国際収支調整のメカニズムは失われ金の偏在が進行した。フランスでは第一次世界大戦の賠償金として[[ドイツ]]から1320億[[マルク]]を獲得する請求権を得たが現物給付などにより十分な支払いがなされなかったこともありインフレ([[ルーブル]]相場の下落)が発生し、極端な金塊主義政策を採用し本位金の備蓄をおこなった。これらの背景のもとに[[1929年]]からの[[世界恐慌]]が拡大し、イギリスは[[1931年]]に金本位制を離脱、アメリカを除く各国もこれに追随し、以後金本位制に代わる管理通貨制度の時代になった。イギリスの経済学者[[ジョン・メイナード・ケインズ|ケインズ]]は[[1920年代]]の半ばから、為替の安定に主眼を置く金本位制に替わって、国内経済の諸目的(物価・景気・雇用)を優先させる管理通貨制度の採用を主張していた。 |
||
[[第二次世界大戦|第二次大戦]]後は[[国際通貨基金|IMF体制]]のもと、金と1[[オンス]]=35ドルの平価で交換可能な[[米ドル]]を[[基軸通貨]]とし、各国通貨は米ドルとの[[固定相場制]]を採用した([[ブレトン・ウッズ体制]])。この体制下でも加盟各国は国内においては管理通貨制度を取っており、通貨当局は為替介入と金融政策により対ドル固定相場を上下幅1%以内に維持しつづけた。この制度は「金ドル本位制」「金為替本位制」などといわれる。[[1971年]]、アメリカの財政赤字、経常赤字が増大してインフレが進行、アメリカはドルと金の兌換停止に踏み切り([[ニクソン・ショック]])、これをもって金と通貨の関係は完全に切り離され、国際的にも管理通貨制度へ移行した。 |
|||
== 関連項目 == |
|||
* [[マネタリーベース]] |
|||
* [[マネーサプライ]] |
|||
* [[金融政策]] |
|||
{{DEFAULTSORT:かんりつうかせいと}} |
{{DEFAULTSORT:かんりつうかせいと}} |
||
[[Category:通貨制度]] |
[[Category:通貨制度]] |
||
[[Category:経済政策]] |
[[Category:経済政策]] |
||
{{economy-stub}} |
|||
[[ko:관리통화제도]] |
[[ko:관리통화제도]] |
2010年10月20日 (水) 16:19時点における版
管理通貨制度(かんりつうかせいど)とは、通貨の発行量を通貨当局が恣意的に調節することで、物価の安定、経済成長、雇用の改善、国際収支の安定などを図る制度。本位制度に対していう。
概要
金を貨幣価値の裏付けとする金本位制においては、銀行券発行量は正貨準備高に拘束されるのに対し、管理通貨制度では貨幣の価値は政府または中央銀行の信用によって裏付けされるため、その価値は不安定となりやすい。よって通貨当局は金融政策により貨幣価値の安定化を図ることを重視する。
管理通貨制度では、景気や物価調整のために柔軟な通貨量調整をすることができるメリットがある。一方で通貨当局と行政府の関係(独立性と協調性)がつねに問われ、通貨当局が行政府の影響下にある場合、景気対策のための恒常的な金融緩和がインフレを招く場合がある。また独立性が極端に保護されている場合、通貨当局の失策が国家に破滅的な混乱をもたらす場合がある(ライヒスバンクの事例)。
歴史
管理通貨制度が採用される以前、欧米諸国を中心とした国際決済市場では金本位を利用することが一般的であった。これは銀行に金貨・金地金を預託しその預かり券(紙幣)を用いて取引を行い、最終的な決済は売り手・買い手の指定する銀行間で金現送することによって精算する制度である。
金本位による国際決済は戦争によりしばしば中断されることがあり、とりわけ19世紀にはロンドンが主要国にとって国際決済の中心であった事から、第一次世界大戦の発生により金本位の中断を余儀なくされた。例えば日本は1913年12月末の時点で日銀正貨準備は1億3千万円、在外正貨2億4,600万円であり、在外正貨はすべてロンドンにあった。また外貨決済の8〜9割をロンドンで行っていたが、第一次大戦が始まる1914年の8月には手形輸送が途絶し(当時はシベリア鉄道で輸送していた)、ロンドンの金融機関が活動を停止するなど混乱した。大戦終結にともない1919年にアメリカが、1925年にはイギリスが金本位制に復帰した。
第一次世界大戦の前後から金(本位金)は経済力の格差からアメリカに集まり、アメリカでは国内で正貨が過剰となってインフレが昂進したことから、通貨準備から金の一部をはずす不胎化政策をとった結果、金本位制の持つ国際収支調整のメカニズムは失われ金の偏在が進行した。フランスでは第一次世界大戦の賠償金としてドイツから1320億マルクを獲得する請求権を得たが現物給付などにより十分な支払いがなされなかったこともありインフレ(ルーブル相場の下落)が発生し、極端な金塊主義政策を採用し本位金の備蓄をおこなった。これらの背景のもとに1929年からの世界恐慌が拡大し、イギリスは1931年に金本位制を離脱、アメリカを除く各国もこれに追随し、以後金本位制に代わる管理通貨制度の時代になった。イギリスの経済学者ケインズは1920年代の半ばから、為替の安定に主眼を置く金本位制に替わって、国内経済の諸目的(物価・景気・雇用)を優先させる管理通貨制度の採用を主張していた。
第二次大戦後はIMF体制のもと、金と1オンス=35ドルの平価で交換可能な米ドルを基軸通貨とし、各国通貨は米ドルとの固定相場制を採用した(ブレトン・ウッズ体制)。この体制下でも加盟各国は国内においては管理通貨制度を取っており、通貨当局は為替介入と金融政策により対ドル固定相場を上下幅1%以内に維持しつづけた。この制度は「金ドル本位制」「金為替本位制」などといわれる。1971年、アメリカの財政赤字、経常赤字が増大してインフレが進行、アメリカはドルと金の兌換停止に踏み切り(ニクソン・ショック)、これをもって金と通貨の関係は完全に切り離され、国際的にも管理通貨制度へ移行した。