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'''黒川 道祐'''(くろかわ どうゆう、不詳 - [[1691年]]([[元禄]]4年))は、[[江戸時代]]初期の医者であり、歴史家である。主著として医学史書の『[[本朝医考]]』と、[[山城国]]の地誌である『[[雍州府志]]』([[岩波文庫]]で上のみ)がある。
'''黒川 道祐'''(くろかわ どうゆう、[[1623]](元和9年) - [[1691年]]12月23日([[元禄]]4年11月4日))は、[[江戸時代]]初期の医者であり、歴史家である。


== 人物 ==
道祐は[[字]]であり、名は玄逸、号に静庵、遠碧軒などがある。[[林羅山]]より[[儒学]]を学んだ。[[安芸国]]の浅野家儒医として仕えた。職を辞した後、洛中に住して、本草家の[[貝原益軒]]と交友した。
道祐は[[字]]であり、名は玄逸、号に静庵、遠碧軒などがある。[[林羅山]]より[[儒学]]を学んだ。父と同じく[[安芸国]]の浅野家へ家禄400石で儒医として仕えた。職を辞した後、洛中に住して、本草家の[[貝原益軒]]と交友した。主著として医学史書の『[[本朝医考]]』と、[[山城国]]の地誌である『[[雍州府志]]』などがある


== 家族 ==
河窪武田家(清和源氏を祖とする)の武田信成(江戸期の医師)の娘を嫁として迎え入れ、その長男信郷(叔安)が河窪武田家を継ぐ。黒川家13代目現当主黒川祐介は、タナシン電機株式会社副社長、株式会社タカキタ役員を歴任。
*父:[[黒川光信]](法眼)儒医、[[広島藩]][[浅野光晟]]侯[[典医]]、[[林道春]]門人
*母:[[堀杏庵]]の女
**本人:黒川道祐
**妻:武田信成(江戸期の医師)の女<ref>武田信成は、清和源氏を祖とする[[河窪武田氏]]である。</ref>
***長男:武田信郷(叔安)河窪武田家を継ぐ
****13代目当主:黒川祐介(タナシン電機株式会社副社長、株式会社タカキタ役員を歴任)


== 著書 ==
== 著書 ==
* 日次紀事
*『本朝医考
*『雍州府志』<ref>[[岩波文庫]]で上のみ刊行。</ref>
* 『芸備国郡志』
*『日次紀事』
* 『遠碧軒随筆』一名『遠碧軒記』。『日本随筆大成』第1期第10巻所収、[[吉川弘文館]]
*『芸備国郡志』
*『遠碧軒随筆』<ref>一名『遠碧軒記』。『日本随筆大成』第1期第10巻所収、[[吉川弘文館]]</ref>


== 注釈 ==
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==

2010年6月19日 (土) 14:51時点における版

黒川 道祐(くろかわ どうゆう、1623年(元和9年) - 1691年12月23日(元禄4年11月4日))は、江戸時代初期の医者であり、歴史家である。

人物

道祐はであり、名は玄逸、号に静庵、遠碧軒などがある。林羅山より儒学を学んだ。父と同じく安芸国の浅野家へ家禄400石で儒医として仕えた。職を辞した後、洛中に住して、本草家の貝原益軒と交友した。主著として医学史書の『本朝医考』と、山城国の地誌である『雍州府志』などがある。

家族

  • 父:黒川光信(法眼)儒医、広島藩浅野光晟典医林道春門人
  • 母:堀杏庵の女
    • 本人:黒川道祐
    • 妻:武田信成(江戸期の医師)の女[1]
      • 長男:武田信郷(叔安)河窪武田家を継ぐ
        • 13代目当主:黒川祐介(タナシン電機株式会社副社長、株式会社タカキタ役員を歴任)

著書

  • 『本朝医考』
  • 『雍州府志』[2]
  • 『日次紀事』
  • 『芸備国郡志』
  • 『遠碧軒随筆』[3]

注釈

  1. ^ 武田信成は、清和源氏を祖とする河窪武田氏である。
  2. ^ 岩波文庫で上のみ刊行。
  3. ^ 一名『遠碧軒記』。『日本随筆大成』第1期第10巻所収、吉川弘文館

参考文献