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==経歴==
==経歴==
12歳で入段。しかし直後に起きた[[文化大革命]]の影響で、囲碁棋士として容易に活動できない状況となる。文革後、[[1979年]]に第1回世界アマチュア囲碁選手権戦の中国代表として出場し、3位入賞。翌年第2回にも2位。
12歳で入段。1979年に第1回世界アマチュア囲碁選手権戦の中国代表として出場し、3位入賞。翌年第2回にも2位。29歳の時に香港へ移住し、新聞のスポーツ記者を努め、1986年に香港代表として世界アマ選手権に優勝し、1987年に関西棋院で飛付五段となる。1988年関西棋院賞新人賞。その後「月刊碁学」誌上で[[結城聡]]と三番勝負を行う(陳1-2)。1991年七段昇段、本因坊戦で初のリーグ入りし、[[林海峰]]、[[大竹英雄]]、[[加藤正夫]]らを破って、4-3の3位となる。翌期は3-4で陥落。1992年[[応昌期杯世界プロ囲碁選手権戦]]に香港代表として出場し、1回戦で[[橋本昌二]]に勝ち、2回戦で大竹英雄に敗れる。1995年[[天元戦]]トーナメントでベスト4進出するが、[[小林光一]]に敗れる。1996年応杯では中国代表として出場、1回戦で[[馬暁春]]に敗れる。1996年九段。2007年に53歳で名人戦リーグ入り、リーグ初参加の最高齢記録、またリーグ最年長となるが、8戦全敗で陥落。

29歳の時に香港へ移住、新聞のスポーツ記者となり、いったんプロの道を離れる。[[1986年]]に香港代表として世界アマ選手権に優勝。

[[1987年]]に来日し、関西棋院で飛付五段となる。[[1988年]]、関西棋院賞新人賞。その後「月刊碁学」誌上で[[結城聡]]と三番勝負を行う(陳1-2)。

[[1991年]]に七段昇段、本因坊戦で初のリーグ入りをし、[[林海峰]]、[[大竹英雄]]、[[加藤正夫]]らを破って、4-3の3位となる。しかし翌期、3-4で陥落。

[[1992年]]、[[応昌期杯世界プロ囲碁選手権戦]]に香港代表として出場し、1回戦で[[橋本昌二]]に勝ち、2回戦で大竹英雄に敗れる。

[[1995年]]、[[天元戦]]トーナメントでベスト4進出するが、[[小林光一]]に敗れる。

[[1996年]]、応氏杯では中国代表として出場、1回戦で[[馬暁春]]に敗れる。同年九段昇段。

[[2007年]]に53歳2か月で名人戦リーグ入り、リーグ初参加の最高齢記録、またリーグ最年長となるが、8戦全敗で陥落。


===主な棋歴===
===主な棋歴===

2010年5月28日 (金) 05:59時点における版

陳嘉鋭(ちん かえい、1954年昭和29年)8月23日 - )は、日本中国香港囲碁棋士。中国広東省出身、中国囲棋協会関西棋院所属、九段。世界アマチュア囲碁選手権戦優勝後に日本でプロ棋士となり、本因坊戦リーグ名人戦リーグ入りなど。戦闘的な碁風。

経歴

12歳で入段。しかし直後に起きた文化大革命の影響で、囲碁棋士として容易に活動できない状況となる。文革後、1979年に第1回世界アマチュア囲碁選手権戦の中国代表として出場し、3位入賞。翌年第2回にも2位。

29歳の時に香港へ移住、新聞のスポーツ記者となり、いったんプロの道を離れる。1986年に香港代表として世界アマ選手権に優勝。

1987年に来日し、関西棋院で飛付五段となる。1988年、関西棋院賞新人賞。その後「月刊碁学」誌上で結城聡と三番勝負を行う(陳1-2)。

1991年に七段昇段、本因坊戦で初のリーグ入りをし、林海峰大竹英雄加藤正夫らを破って、4-3の3位となる。しかし翌期、3-4で陥落。

1992年応昌期杯世界プロ囲碁選手権戦に香港代表として出場し、1回戦で橋本昌二に勝ち、2回戦で大竹英雄に敗れる。

1995年天元戦トーナメントでベスト4進出するが、小林光一に敗れる。

1996年、応氏杯では中国代表として出場、1回戦で馬暁春に敗れる。同年九段昇段。

2007年に53歳2か月で名人戦リーグ入り、リーグ初参加の最高齢記録、またリーグ最年長となるが、8戦全敗で陥落。

主な棋歴

  • 世界アマチュア囲碁選手権戦
    • 中国代表 1979年3位、1980年2位
    • 香港代表 1985年2位、1986年優勝
  • 本因坊戦リーグ2期、名人戦リーグ1期

外部リンク