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ボックス・セット/混合ダブルスのパートナーについて
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{{テニス選手
'''ドリス・ジェーン・ハート'''('''Doris Jane Hart''', [[1925年]][[6月20日]] - )は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ミズーリ州]][[セントルイス]]出身の女子[[テニス]]選手。[[第二次世界大戦|第2次世界大戦]]の終戦直後の時代に活躍し、[[1940年代]]後半から[[1950年代]]前半にかけて、テニス4大大会の女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの3部門すべてに「[[グランドスラム (テニス)|キャリア・グランドスラム]]」を達成した名選手である。女子シングルスで総計6勝、女子ダブルスで総計14勝、混合ダブルスで総計15勝を挙げ、生涯で「35」のグランドスラム・タイトルを獲得した。幼少期に患った足の病気をものともせず、頭脳的で安定したオールラウンド・プレーヤーとして一世代をリードした。
|選手名(日本語)=ドリス・ハート
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|選手名(英語)=Doris Hart
|フルネーム(英語名)=Doris Jane Hart
|愛称=
|国籍={{USA}}
|出身地=同・ミズーリ州セントルイス
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|誕生日={{生年月日と年齢|1925|6|20}}
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|利き手=右
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|ダブルス通算=
|全豪オープン=優勝(1949)
|全仏オープン=優勝(1950・52)
|ウィンブルドン=優勝(1951)
|全米オープン=優勝(1954・55)
|優勝回数=6(豪1・仏2・英1・米2)
|全豪オープンダブルス=優勝(1950)
|全仏オープンダブルス=優勝(1948・50-53)
|ウィンブルドンダブルス=優勝(1947・51-53)
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|全豪オープン混合ダブルス=優勝(1949・50)
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|混合ダブルス優勝回数=15(豪2・仏3・英5・米5)
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'''ドリス・ハート'''('''Doris Hart''', [[1925年]][[6月20日]] - )は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ミズーリ州]][[セントルイス]]出身の女子[[テニス]]選手。[[第二次世界大戦|第2次世界大戦]]の終戦直後の時代に活躍し、[[1940年代]]後半から[[1950年代]]前半にかけて、テニス4大大会の女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの3部門すべてに「[[グランドスラム (テニス)|キャリア・グランドスラム]]」を達成した名選手である。女子シングルスで総計6勝、女子ダブルスで総計14勝、混合ダブルスで総計15勝を挙げ、生涯で「35」のグランドスラム・タイトルを獲得した。幼少期に患った足の病気をものともせず、頭脳的で安定したオールラウンド・プレーヤーとして一世代をリードした。フルネームは ''Doris Jane Hart'' (ドリス・ジェーン・ハート)という


ドリス・ハートは幼少時代に深刻な膝の感染症を患い、「このままでは身体障害者になるおそれがある」と診断されたことから、治療のために6歳から[[テニス]]を始めた。当時の医学上の診断では、彼女の病気は「[[急性灰白髄炎|小児麻痺]]」と言われた。(後に、この診断は誤りであると分かった。)病気の影響のため、彼女の足は“弓のように曲がり、動きがおぼつかなく見える”外見になったが、それにもめげず回復してテニス選手になることができた。早くも[[第二次世界大戦|第2次世界大戦]]中の[[1942年]]、ハートは17歳で[[1942年全米テニス選手権|全米選手権]]の女子ダブルス決勝に初進出を果たす。当時の全米選手権では、[[マーガレット・オズボーン・デュポン|マーガレット・オズボーン]]と[[ルイーズ・ブラフ]]組が[[1942年全米テニス選手権|1942年]]から[[1950年全米テニス選手権|1950年]]まで女子ダブルス部門に「9連覇」中で、その期間中にハートは7度の女子ダブルス準優勝の壁にぶつかった。
ドリス・ハートは幼少時代に深刻な膝の感染症を患い、「このままでは身体障害者になるおそれがある」と診断されたことから、治療のために6歳から[[テニス]]を始めた。当時の医学上の診断では、彼女の病気は「[[急性灰白髄炎|小児麻痺]]」と言われた。(後に、この診断は誤りであると分かった。)病気の影響のため、彼女の足は“弓のように曲がり、動きがおぼつかなく見える”外見になったが、それにもめげず回復してテニス選手になることができた。早くも[[第二次世界大戦|第2次世界大戦]]中の[[1942年]]、ハートは17歳で[[1942年全米テニス選手権|全米選手権]]の女子ダブルス決勝に初進出を果たす。当時の全米選手権では、[[マーガレット・オズボーン・デュポン|マーガレット・オズボーン]]と[[ルイーズ・ブラフ]]組が[[1942年全米テニス選手権|1942年]]から[[1950年全米テニス選手権|1950年]]まで女子ダブルス部門に「9連覇」中で、その期間中にハートは7度の女子ダブルス準優勝の壁にぶつかった。
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長い間立ちはだかった大きな壁を乗り越えて、ドリス・ハートのテニス経歴が大きく開花したのは[[1951年]]に入ってからである。この年、彼女は[[1951年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン選手権]]の女子シングルス決勝戦でダブルス・パートナーの[[シャーリー・フライ]]を 6-1, 6-0 で圧倒した。相手にわずか1ゲームしか与えず、試合時間は35分で終了した。ウィンブルドン選手権の女子シングルスでは[[1947年ウィンブルドン選手権|1947年]]と[[1948年ウィンブルドン選手権|1948年]]に2年連続準優勝があったため、ハートにとっては“3度目の正直”の優勝だった。この年から、ハートはウィンブルドン選手権の混合ダブルス5連覇([[1951年ウィンブルドン選手権|1951年]]-[[1955年ウィンブルドン選手権|1955年]])、全米選手権の女子ダブルス4連覇([[1951年全米テニス選手権|1951年]]-[[1954年全米テニス選手権|1954年]])、全米選手権の混合ダブルス5連覇([[1951年全米テニス選手権|1951年]]-[[1955年全米テニス選手権|1955年]])を記録し、ダブルスでも黄金期を迎えた。シングルスでは、[[1953年]]に[[モーリーン・コノリー]]が女子テニス史上初の「[[グランドスラム (テニス)|年間グランドスラム]]」を達成したが、ハートやフライたちはコノリーのライバルであった。
長い間立ちはだかった大きな壁を乗り越えて、ドリス・ハートのテニス経歴が大きく開花したのは[[1951年]]に入ってからである。この年、彼女は[[1951年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン選手権]]の女子シングルス決勝戦でダブルス・パートナーの[[シャーリー・フライ]]を 6-1, 6-0 で圧倒した。相手にわずか1ゲームしか与えず、試合時間は35分で終了した。ウィンブルドン選手権の女子シングルスでは[[1947年ウィンブルドン選手権|1947年]]と[[1948年ウィンブルドン選手権|1948年]]に2年連続準優勝があったため、ハートにとっては“3度目の正直”の優勝だった。この年から、ハートはウィンブルドン選手権の混合ダブルス5連覇([[1951年ウィンブルドン選手権|1951年]]-[[1955年ウィンブルドン選手権|1955年]])、全米選手権の女子ダブルス4連覇([[1951年全米テニス選手権|1951年]]-[[1954年全米テニス選手権|1954年]])、全米選手権の混合ダブルス5連覇([[1951年全米テニス選手権|1951年]]-[[1955年全米テニス選手権|1955年]])を記録し、ダブルスでも黄金期を迎えた。シングルスでは、[[1953年]]に[[モーリーン・コノリー]]が女子テニス史上初の「[[グランドスラム (テニス)|年間グランドスラム]]」を達成したが、ハートやフライたちはコノリーのライバルであった。

混合ダブルスでは、ハートと息を合わせたパートナーは[[フランク・セッジマン]]([[オーストラリア]])と[[ビック・セイシャス]](アメリカ)の2人であった。セッジマンとは[[1949年]]から[[1952年]]までコンビを組み続けたが、1952年末にセッジマンが「プロテニス選手」に転向する。その後はセイシャスと組み、この2人と一緒にハートはウィンブルドン選手権・全米選手権の混合ダブルス5連覇(1951年-1955年)を成立させた。


ドリス・ハートにとって、最後の壁は[[全米オープン (テニス)|全米選手権]]女子シングルスのタイトルであった。ここでも彼女は何度も苦杯をなめ、[[1949年全米テニス選手権|1949年]]と[[1950年全米テニス選手権|1950年]]、[[1952年全米テニス選手権|1952年]]と[[1953年全米テニス選手権|1953年]]に4度の準優勝に甘んじていた。とりわけ、1952年と1953年の決勝では2年連続で[[モーリーン・コノリー]]に敗れ、[[1953年全米テニス選手権|1953年全米選手権]]の決勝では 2-6, 4-6 で敗れたハートが、コノリーによる女子テニス史上初の「[[グランドスラム (テニス)|年間グランドスラム]]」を目撃した。ところが、[[1954年]]の[[1954年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン選手権]]優勝で4大大会女子シングルス通算「9勝」を記録したコノリーが、全米選手権の開幕直前に落馬事故で選手生命を絶たれてしまう。コノリーの事故の後、ハートは[[1954年]]の[[1954年全米テニス選手権|全米選手権]]で女子シングルス初優勝を果たし、長年の壁だった[[ルイーズ・ブラフ]]を 6-8, 6-1, 8-6 で破り、最後の難関を乗り越えた。これで、ハートはテニス4大大会の3部門すべてに「[[グランドスラム (テニス)|キャリア・グランドスラム]]」を完成させた。これをテニス界では「ボックス・セット」(Boxed Set)と呼ぶ。ハートの優勝記録は[[1955年]]にすべて幕を閉じたが、これで[[1947年]]から積み上げてきたタイトルの数は総計「35勝」となった。幼少期の難病と多くの先輩選手たちの厚い壁を乗り越えたドリス・ハートは、[[1969年]]に[[国際テニス殿堂]]入りを果たしている。
ドリス・ハートにとって、最後の壁は[[全米オープン (テニス)|全米選手権]]女子シングルスのタイトルであった。ここでも彼女は何度も苦杯をなめ、[[1949年全米テニス選手権|1949年]]と[[1950年全米テニス選手権|1950年]]、[[1952年全米テニス選手権|1952年]]と[[1953年全米テニス選手権|1953年]]に4度の準優勝に甘んじていた。とりわけ、1952年と1953年の決勝では2年連続で[[モーリーン・コノリー]]に敗れ、[[1953年全米テニス選手権|1953年全米選手権]]の決勝では 2-6, 4-6 で敗れたハートが、コノリーによる女子テニス史上初の「[[グランドスラム (テニス)|年間グランドスラム]]」を目撃した。ところが、[[1954年]]の[[1954年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン選手権]]優勝で4大大会女子シングルス通算「9勝」を記録したコノリーが、全米選手権の開幕直前に落馬事故で選手生命を絶たれてしまう。コノリーの事故の後、ハートは[[1954年]]の[[1954年全米テニス選手権|全米選手権]]で女子シングルス初優勝を果たし、長年の壁だった[[ルイーズ・ブラフ]]を 6-8, 6-1, 8-6 で破り、最後の難関を乗り越えた。これで、ハートはテニス4大大会の3部門すべてに「[[グランドスラム (テニス)|キャリア・グランドスラム]]」を完成させた。これをテニス界では「ボックス・セット」(Boxed Set)と呼ぶ。ハートの優勝記録は[[1955年]]にすべて幕を閉じたが、これで[[1947年]]から積み上げてきたタイトルの数は総計「35勝」となった。幼少期の難病と多くの先輩選手たちの厚い壁を乗り越えたドリス・ハートは、[[1969年]]に[[国際テニス殿堂]]入りを果たしている。
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2010年2月12日 (金) 11:26時点における版

ドリス・ハート
Doris Hart
基本情報
フルネーム Doris Jane Hart
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 同・ミズーリ州セントルイス
生年月日 (1925-06-20) 1925年6月20日(98歳)
利き手
生涯獲得賞金 0 アメリカ合衆国ドル
4大大会最高成績・シングルス
全豪 優勝(1949)
全仏 優勝(1950・52)
全英 優勝(1951)
全米 優勝(1954・55)
優勝回数 6(豪1・仏2・英1・米2)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪 優勝(1950)
全仏 優勝(1948・50-53)
全英 優勝(1947・51-53)
全米 優勝(1951-54)
優勝回数 14(豪1・仏5・英4・米4)
4大大会最高成績・混合ダブルス
全豪 優勝(1949・50)
全仏 優勝(1951-53)
全英 優勝(1951-55)
全米 優勝(1951-55)
優勝回数 15(豪2・仏3・英5・米5)

ドリス・ハートDoris Hart, 1925年6月20日 - )は、アメリカミズーリ州セントルイス出身の女子テニス選手。第2次世界大戦の終戦直後の時代に活躍し、1940年代後半から1950年代前半にかけて、テニス4大大会の女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの3部門すべてに「キャリア・グランドスラム」を達成した名選手である。女子シングルスで総計6勝、女子ダブルスで総計14勝、混合ダブルスで総計15勝を挙げ、生涯で「35」のグランドスラム・タイトルを獲得した。幼少期に患った足の病気をものともせず、頭脳的で安定したオールラウンド・プレーヤーとして一世代をリードした。フルネームは Doris Jane Hart (ドリス・ジェーン・ハート)という。

ドリス・ハートは幼少時代に深刻な膝の感染症を患い、「このままでは身体障害者になるおそれがある」と診断されたことから、治療のために6歳からテニスを始めた。当時の医学上の診断では、彼女の病気は「小児麻痺」と言われた。(後に、この診断は誤りであると分かった。)病気の影響のため、彼女の足は“弓のように曲がり、動きがおぼつかなく見える”外見になったが、それにもめげず回復してテニス選手になることができた。早くも第2次世界大戦中の1942年、ハートは17歳で全米選手権の女子ダブルス決勝に初進出を果たす。当時の全米選手権では、マーガレット・オズボーンルイーズ・ブラフ組が1942年から1950年まで女子ダブルス部門に「9連覇」中で、その期間中にハートは7度の女子ダブルス準優勝の壁にぶつかった。

1947年ウィンブルドン選手権の女子ダブルスで、パトリシア・トッドと組んで初優勝を飾り、ここからハートの4大大会生涯「35勝」の記録が始まった。続いて、同じトッドとのペアで1948年全仏選手権女子ダブルスに優勝する。1949年全豪選手権で、ハートは女子シングルスにも初優勝を飾り、地元オーストラリアのベテラン選手ナンシー・ウィン・ボルトンを破って優勝した。全豪選手権には1949年と1950年の2度しか出場しなかったが、女子シングルス優勝1949年・女子ダブルス優勝1950年・混合ダブルス2年連続優勝の記録を残している。1950年には全仏選手権の女子シングルス優勝があった。

長い間立ちはだかった大きな壁を乗り越えて、ドリス・ハートのテニス経歴が大きく開花したのは1951年に入ってからである。この年、彼女はウィンブルドン選手権の女子シングルス決勝戦でダブルス・パートナーのシャーリー・フライを 6-1, 6-0 で圧倒した。相手にわずか1ゲームしか与えず、試合時間は35分で終了した。ウィンブルドン選手権の女子シングルスでは1947年1948年に2年連続準優勝があったため、ハートにとっては“3度目の正直”の優勝だった。この年から、ハートはウィンブルドン選手権の混合ダブルス5連覇(1951年-1955年)、全米選手権の女子ダブルス4連覇(1951年-1954年)、全米選手権の混合ダブルス5連覇(1951年-1955年)を記録し、ダブルスでも黄金期を迎えた。シングルスでは、1953年モーリーン・コノリーが女子テニス史上初の「年間グランドスラム」を達成したが、ハートやフライたちはコノリーのライバルであった。

混合ダブルスでは、ハートと息を合わせたパートナーはフランク・セッジマンオーストラリア)とビック・セイシャス(アメリカ)の2人であった。セッジマンとは1949年から1952年までコンビを組み続けたが、1952年末にセッジマンが「プロテニス選手」に転向する。その後はセイシャスと組み、この2人と一緒にハートはウィンブルドン選手権・全米選手権の混合ダブルス5連覇(1951年-1955年)を成立させた。

ドリス・ハートにとって、最後の壁は全米選手権女子シングルスのタイトルであった。ここでも彼女は何度も苦杯をなめ、1949年1950年1952年1953年に4度の準優勝に甘んじていた。とりわけ、1952年と1953年の決勝では2年連続でモーリーン・コノリーに敗れ、1953年全米選手権の決勝では 2-6, 4-6 で敗れたハートが、コノリーによる女子テニス史上初の「年間グランドスラム」を目撃した。ところが、1954年ウィンブルドン選手権優勝で4大大会女子シングルス通算「9勝」を記録したコノリーが、全米選手権の開幕直前に落馬事故で選手生命を絶たれてしまう。コノリーの事故の後、ハートは1954年全米選手権で女子シングルス初優勝を果たし、長年の壁だったルイーズ・ブラフを 6-8, 6-1, 8-6 で破り、最後の難関を乗り越えた。これで、ハートはテニス4大大会の3部門すべてに「キャリア・グランドスラム」を完成させた。これをテニス界では「ボックス・セット」(Boxed Set)と呼ぶ。ハートの優勝記録は1955年にすべて幕を閉じたが、これで1947年から積み上げてきたタイトルの数は総計「35勝」となった。幼少期の難病と多くの先輩選手たちの厚い壁を乗り越えたドリス・ハートは、1969年国際テニス殿堂入りを果たしている。

4大大会優勝

  • 全豪選手権 女子シングルス:1勝(1949年)/女子ダブルス:1勝(1950年)/混合ダブルス:2勝(1949年&1950年)
  • 全仏選手権 女子シングルス:2勝(1950年・1952年)/女子ダブルス:5勝(1948年・1950年-1953年)/混合ダブルス:3勝(1951年-1953年)
  • ウィンブルドン選手権 女子シングルス:1勝(1951年)/女子ダブルス:4勝(1947年・1951年-1953年)/混合ダブルス:5勝(1951年-1955年)
  • 全米選手権 女子シングルス:2勝(1954年&1955年)/女子ダブルス:4勝(1951年-1954年)/混合ダブルス:5勝(1951年-1955年)

外部リンク