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'''漢学'''(かんがく)とは、狭義で言えば[[宋明理学]]対する伝統的な[[経学]]及び[[代]]の[[考証学]]の事を指し広義では[[洋学]]・[[国学]]に対する[[中国]]伝来の学問の総称。ここでは広義の漢学について解説する
'''漢学'''(かんがく)とは、に[[江戸時代]]の[[日本]]において、[[中国]]伝来の[[学問]]の総称。


狭義では、[[宋明理学]]に対する伝統的な[[経学]]及び[[清]]朝の[[考証学]]。広義では、[[洋学]]・[[国学]]に対する中国伝来の学問の総称。ここでは広義の漢学について解説する。
[[江戸時代]]中期以前においては、外国の優れた学術は[[漢籍]]の形で中国から入ってくるのが一般的であったため、外来の学術研究は全て「漢学」と考えられてきた。ところが、[[ヨーロッパ]]の書籍から直接知識を得ようとする洋学([[蘭学]])が出現するようになると、従来の学問([[日本]]固有の学術及び中国伝来の学術)はこれと区別する意味で「'''皇漢学'''(こうかんがく)」と称されるようになる。ところが[[本居宣長]]など国学や[[神道]]を研究する人々は漢学(からまなび)こそ古来日本以来の精神を毒しているとこれを排する動きが強まり、「皇漢学」という呼び名も次第に廃れて国学と漢学は分離されるようになった。


==歴史的経過==
[[明治時代]]以後になると古い[[儒学]]系統の学問は衰微して、代わって西洋の学問研究を取り入れた「[[支那学]]」として再構築されるようになる。ところが支那学形成の中心が[[京都帝国大学]]であった事からこれに反発する[[東京大学|東京帝国大学]]関係者や古来日本が文明を取り入れた中国と当時の[[列強]]による[[半植民地]]状態の中国を意図的に分離を図る[[国粋主義者]]の中には依然として「漢学」という呼称を用いる者があった。
===[[江戸時代]]===
[[江戸時代]]中期までにおいては、外国の優れた学術は[[漢籍]]の形で中国から入ってくるのが一般的であったため、外来の学術研究は全て「漢学」と考えられてきた。ところが、[[ヨーロッパ]]の書籍から直接知識を得ようとする洋学([[蘭学]])が出現するようになると、従来の学問([[日本]]固有の学術及び中国伝来の学術)はこれと区別する意味で「'''皇漢学'''(こうかんがく)」と称されるようになる。ところが[[本居宣長]]など国学や[[神道]]を研究する人々は漢学(からまなび)こそ古来日本以来の精神を毒しているとこれを排する動きが強まり、「皇漢学」という呼び名も次第に廃れて国学と漢学は分離されるようになった。


===[[戦前]]===
[[戦後]]「[[支那]]」という呼称を宜しきとしな風潮よって支那学漢学も一括して「'''[[中国学]]'''」と呼称されるようになる。なお、現代でも[[近代]]以前の[[中国文学]]を専門として研究する場合には、「'''[[漢文学]]'''」という呼称が用いられるのが一般的である。
[[明治政府]]が[[西洋]]各国の学問の摂取を進めると古い[[儒学]]系統の学問は衰て、代わって西洋の学問研究を取り入れた「[[支那学]]」として再構築されるようになる。ところが支那学の中心となった学派が[[京都大学|京都帝国大学]]であった事からこれに反発する[[東京大学|東京帝国大学]]の学派古来日本が文明を取り入れた中国と当時の[[列強]]による[[半植民地]]状態の中国を意図的に分離を図る[[国粋主義者]]の中には依然として「漢学」という呼称を用いる者があった。

===[[戦後]]===
[[ファシズム]]時代において「[[支那]]」という呼称が侮蔑的に用られた経緯から、第二次世界大戦後は、「支那学」「漢学」で呼ばれ来た中国関連の学問は、「'''[[中国学]]'''」と呼称されるようになっている。なお、[[現代 (時代区分)|現代]]でも[[近代]]以前の[[中国文学]]を専門として研究する場合には、「'''[[漢文学]]'''」という呼称が用いられている。


==関連項目==
==関連項目==
* [[中国学]]
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* [[儒教#日本における展開と変容|日本の儒学]]
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2009年11月29日 (日) 08:46時点における版

漢学(かんがく)とは、特に江戸時代日本において、中国伝来の学問の総称。

狭義では、宋明理学に対する伝統的な経学及び朝の考証学。広義では、洋学国学に対する中国伝来の学問の総称。ここでは広義の漢学について解説する。

歴史的経過

江戸時代

江戸時代中期までにおいては、外国の優れた学術は漢籍の形で中国から入ってくるのが一般的であったため、外来の学術研究は全て「漢学」と考えられてきた。ところが、ヨーロッパの書籍から直接知識を得ようとする洋学(蘭学)が出現するようになると、従来の学問(日本固有の学術及び中国伝来の学術)はこれと区別する意味で「皇漢学(こうかんがく)」と称されるようになる。ところが本居宣長など国学や神道を研究する人々は漢学(からまなび)こそ古来日本以来の精神を毒しているとこれを排する動きが強まり、「皇漢学」という呼び名も次第に廃れて国学と漢学は分離されるようになった。

戦前

明治政府西洋各国の学問の摂取を進めると、古い儒学系統の学問は衰えて、代わって西洋の学問研究を取り入れた「支那学」として再構築されるようになる。ところが支那学の中心となった学派が京都帝国大学であった事から、これに反発する東京帝国大学の学派や、古来日本が文明を取り入れた中国と当時の列強による半植民地状態の中国を意図的に分離を図る国粋主義者の中には、依然として「漢学」という呼称を用いる者があった。

戦後

ファシズム時代において「支那」という呼称が侮蔑的に用いられた経緯から、第二次世界大戦後には、「支那学」「漢学」で呼ばれて来た中国関連の学問は、「中国学」と呼称されるようになっている。なお、現代でも、近代以前の中国文学を専門として研究する場合には、「漢文学」という呼称が用いられている。

関連項目