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2009年11月29日 (日) 08:46時点における版
漢学(かんがく)とは、特に江戸時代の日本において、中国伝来の学問の総称。
狭義では、宋明理学に対する伝統的な経学及び清朝の考証学。広義では、洋学・国学に対する中国伝来の学問の総称。ここでは広義の漢学について解説する。
歴史的経過
江戸時代
江戸時代中期までにおいては、外国の優れた学術は漢籍の形で中国から入ってくるのが一般的であったため、外来の学術研究は全て「漢学」と考えられてきた。ところが、ヨーロッパの書籍から直接知識を得ようとする洋学(蘭学)が出現するようになると、従来の学問(日本固有の学術及び中国伝来の学術)はこれと区別する意味で「皇漢学(こうかんがく)」と称されるようになる。ところが本居宣長など国学や神道を研究する人々は漢学(からまなび)こそ古来日本以来の精神を毒しているとこれを排する動きが強まり、「皇漢学」という呼び名も次第に廃れて国学と漢学は分離されるようになった。
戦前
明治政府が西洋各国の学問の摂取を進めると、古い儒学系統の学問は衰えて、代わって西洋の学問研究を取り入れた「支那学」として再構築されるようになる。ところが支那学の中心となった学派が京都帝国大学であった事から、これに反発する東京帝国大学の学派や、古来日本が文明を取り入れた中国と当時の列強による半植民地状態の中国を意図的に分離を図る国粋主義者の中には、依然として「漢学」という呼称を用いる者があった。
戦後
ファシズム時代において「支那」という呼称が侮蔑的に用いられた経緯から、第二次世界大戦後には、「支那学」「漢学」で呼ばれて来た中国関連の学問は、「中国学」と呼称されるようになっている。なお、現代でも、近代以前の中国文学を専門として研究する場合には、「漢文学」という呼称が用いられている。