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'''正倉院文書'''(しょうそういんもんじょ)は、[[東大寺]][[正倉院]]に保管されてきた文書群で、主に東大寺写経所が作成した文書群のこと(狭義には中倉の写経所文書を正倉院文書と呼ぶ。この他、北倉文書がある)。奈良時代に関する豊富な情報を含む史料である。
'''正倉院文書'''(しょうそういんもんじょ)は、[[東大寺]][[正倉院]]に保管されてきた文書群で、主に東大寺写経所が作成した文書群のこと(狭義には中倉の写経所文書を正倉院文書と呼ぶ。この他、北倉文書がある)。[[奈良時代]]に関する豊富な情報を含む[[史料]]である。


律令制下で官庁が作成した文書や諸国からの報告書のほとんどは短期間(戸籍の保存期間は比較的長く30年)で廃棄されていたが、東大寺写経所では廃棄文書の裏面を帳簿として再利用していた。8世紀([[神亀]]~[[宝亀]]年間の約50年)の写経所文書が正倉院に納められ、保存されてきたため、[[奈良時代]]の[[戸籍]]・正税帳などの貴重な[[史料]]が今日まで残ることになった。
[[律令制]]下で[[官庁]]が作成した文書や諸国からの報告書のほとんどは短期間(戸籍の保存期間は比較的長く30年)で廃棄されていたが、東大寺写経所では廃棄文書の裏面を帳簿として再利用していた。8世紀([[神亀]]~[[宝亀]]年間の約50年)の写経所文書が正倉院に納められ、保存されてきたため、[[奈良時代]]の[[戸籍]]・正税帳などの貴重な[[史料]]が今日まで残ることになった。


[[江戸時代]]後期、穂井田忠友([[平田篤胤]]に学んだ国学者)によって写経所文書の紙背にある史料が注目され、[[1833年]]-[[1836年]]([[天保]]4-7年)、元の戸籍・正税帳などの状態を復元すべく一部の文書が抜出されて、45巻(正集)にまとめられた。明治時代以降は内務省、宮内省により整理が続けられ、667巻5冊の形態になった。これにより文書の研究は大きく進んだが、一方で写経所文書は断片化されてしまい、かつての形態とは異なってしまっている。
[[江戸時代]]後期、穂井田忠友([[平田篤胤]]に学んだ国学者)によって写経所文書の紙背にある史料が注目され、[[1833年]]-[[1836年]]([[天保]]4-7年)、元の戸籍・正税帳などの状態を復元すべく一部の文書が抜出されて、45巻(正集)にまとめられた。[[明治時代]]以降は[[内務省]][[宮内省]]により整理が続けられ、667巻5冊の形態になった。これにより文書の研究は大きく進んだが、一方で写経所文書は断片化されてしまい、かつての形態とは異なってしまっている。


建築史家・[[福山敏男]]は写経所文書に含まれていた<!--?-->石山寺関係史料の復元考察を行い、[[石山寺]]の造営過程(761年-)を浮かび上がらせた(「奈良時代に於ける石山寺の造営」1933年、『日本建築史の研究』所収)。福山の研究以降、写経所文書の研究も進められている。
建築史家・[[福山敏男]]は写経所文書に含まれていた<!--?-->石山寺関係史料の復元考察を行い、[[石山寺]]の造営過程(761年-)を浮かび上がらせた(「奈良時代に於ける石山寺の造営」1933年、『日本建築史の研究』所収)。福山の研究以降、写経所文書の研究も進められている。


正倉院文書は『[[大日本古文書]]』(編年文書、25冊、1901-1940年)に活字化されている。原本は非公開で、正倉院の曝涼にあわせて、毎年秋の正倉院展([[奈良国立博物館]])において数点が公開される。
正倉院文書は『[[大日本古文書]]』(編年文書、25冊、[[1901年]]-[[1940年]])に活字化されている。原本は非公開で、[[正倉院]]の曝涼にあわせて、毎年秋の正倉院展([[奈良国立博物館]])において数点が公開される。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2009年11月2日 (月) 15:19時点における版

正倉院文書(しょうそういんもんじょ)は、東大寺正倉院に保管されてきた文書群で、主に東大寺写経所が作成した文書群のこと(狭義には中倉の写経所文書を正倉院文書と呼ぶ。この他、北倉文書がある)。奈良時代に関する豊富な情報を含む史料である。

律令制下で官庁が作成した文書や諸国からの報告書のほとんどは短期間(戸籍の保存期間は比較的長く30年)で廃棄されていたが、東大寺写経所では廃棄文書の裏面を帳簿として再利用していた。8世紀(神亀宝亀年間の約50年)の写経所文書が正倉院に納められ、保存されてきたため、奈良時代戸籍・正税帳などの貴重な史料が今日まで残ることになった。

江戸時代後期、穂井田忠友(平田篤胤に学んだ国学者)によって写経所文書の紙背にある史料が注目され、1833年-1836年天保4-7年)、元の戸籍・正税帳などの状態を復元すべく一部の文書が抜出されて、45巻(正集)にまとめられた。明治時代以降は内務省宮内省により整理が続けられ、667巻5冊の形態になった。これにより文書の研究は大きく進んだが、一方で写経所文書は断片化されてしまい、かつての形態とは異なってしまっている。

建築史家・福山敏男は写経所文書に含まれていた石山寺関係史料の復元考察を行い、石山寺の造営過程(761年-)を浮かび上がらせた(「奈良時代に於ける石山寺の造営」1933年、『日本建築史の研究』所収)。福山の研究以降、写経所文書の研究も進められている。

正倉院文書は『大日本古文書』(編年文書、25冊、1901年-1940年)に活字化されている。原本は非公開で、正倉院の曝涼にあわせて、毎年秋の正倉院展(奈良国立博物館)において数点が公開される。

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