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'''縦横家'''(じゅうおうか または しょうおうか)は、[[中国]]古代の[[思想家]]たちで、[[諸子百家]]の一つ。[[外交]]の策士として各国の間を行き来した人たちのことである。 |
'''縦横家'''(じゅうおうか または しょうおうか)は、[[中国]]古代の[[思想家]]たちで、[[諸子百家]]の一つ。[[外交]]の策士として各国の間を行き来した人たちのことである。 |
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2009年10月15日 (木) 13:42時点における版
縦横家(じゅうおうか または しょうおうか)は、中国古代の思想家たちで、諸子百家の一つ。外交の策士として各国の間を行き来した人たちのことである。
内容
巧みな弁舌と奇抜なアイディアで諸侯を説き伏せ、あわよくば自らが高い地位に昇ろうとする、そのような行為を弁舌によって行う者が縦横家である。合従策を唱えた蘇秦と連衡策を唱えた張儀が有名。蘇秦はその弁舌によって同時に6国の宰相を兼ねたとされている。
「縦横家」という言葉も彼らの策の名前に由来する。
- 合従は諸国が連合し秦に対抗する政策のことで、これは、秦以外の国が秦の東に南北に並んでいること(「縦」=「従」)による。
- 連衡は秦と同盟し生き残りを図る政策のことで、信徒それ以外の国が手を組んだ場合、それらが東西に並ぶことを「横」=「衡」といったことによる。
ちなみに蘇秦は秦以外の六国を連盟させることに成功し、そのために秦はその後15年にわたって戦争を仕掛けてこなかった。かといって、それでは蘇秦が平和のため、あるいは中国をよいものにするためにこのような連盟をもくろんだのではなさそうである。彼はまず燕の国を説き、そこからこの連合を完成させたが、実はその前に秦を訪れ、「戦に強くなる準備をすれば天下をひと飲みに出来る」と説いていた。彼が受け入れられなかったのは当時秦で商鞅が処刑されたところで、国外のものに警戒感を持っていたためと言われる。この策に対立する連衡の代表である張儀が秦へ向かったのも、実は蘇秦の意図するところであった。張儀は彼の意図を察して、彼の健在である間は手を出さず、その後連盟を分裂させた。
なお、連衡の論者は往々にして秦の息のかかったものであり、それ以外の国の間を対立させ、どこかの国と手を組むことで敵になった国を攻撃し、あるいは手を組んだ国から土地や城を供出させることを目指した。張儀はその典型である。これによって、次第に秦の版図は拡大し、ついに全国統一を行うに至る、というのが戦国時代後半の歴史である。