「鍋島直泰」の版間の差分
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Category:貴族院侯爵議員 |
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直泰は自動車マニアとしても知られ、1935年には[[イスパノ・スイザ]]K6をベアシャシー(ボディがない状態)で輸入、自邸内の小屋で自らデザインした2ドアクーペボディを、約半年かけて日本人職人に製作・架装させた。完成当初のボディカラーはナス紺と溜色(小豆色)のコンビネーションだったと言われるが、その後も昭和40年頃まで、塗色の変更、ホイールカバーの取り外し(ワイアホイールをそのまま見せる)、バンパーを二分割にする等の改良を積み重ね、死去するまでナンバーを付けて時折実用に供し続けた。このイスパノ・スイザは1983年、直要が[[佐賀県立博物館]]に管理を委託、約25年間にわたり、同博物館1階ホールに展示されていたが、2008年になって[[トヨタ博物館]]に寄託されることになった。 |
直泰は自動車マニアとしても知られ、1935年には[[イスパノ・スイザ]]K6をベアシャシー(ボディがない状態)で輸入、自邸内の小屋で自らデザインした2ドアクーペボディを、約半年かけて日本人職人に製作・架装させた。完成当初のボディカラーはナス紺と溜色(小豆色)のコンビネーションだったと言われるが、その後も昭和40年頃まで、塗色の変更、ホイールカバーの取り外し(ワイアホイールをそのまま見せる)、バンパーを二分割にする等の改良を積み重ね、死去するまでナンバーを付けて時折実用に供し続けた。このイスパノ・スイザは1983年、直要が[[佐賀県立博物館]]に管理を委託、約25年間にわたり、同博物館1階ホールに展示されていたが、2008年になって[[トヨタ博物館]]に寄託されることになった。 |
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==外部リンク== |
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* [http://www.nabeshima.or.jp/ 徴古館(ちょうこかん)HP(旧佐賀藩主 鍋島家に伝来した美術工芸品・歴史資料を主に収蔵・展示する博物館)] |
* [http://www.nabeshima.or.jp/ 徴古館(ちょうこかん)HP(旧佐賀藩主 鍋島家に伝来した美術工芸品・歴史資料を主に収蔵・展示する博物館)] |
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* [http://www.toyota.co.jp/Museum/ |
* [http://www.toyota.co.jp/Museum/index-j.html トヨタ博物館HP] |
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2009年10月15日 (木) 02:48時点における版
鍋島 直泰(なべしま なおやす、1907年(明治40年)10月3日 - 1981年(昭和56年)5月1日)は旧佐賀藩主・鍋島家の13代当主。12代直映の嫡男。学習院・東京帝国大学を卒業、宮内省式部官を務めた後、1943年(昭和18年)に家督を相続・侯爵を襲爵し貴族院議員となり、貴族院の廃止までその任にあった。
名ゴルファーとして知られ、1933年から1935年の日本アマチュア選手権に3連覇、1ラウンドで2度ホールインワンを記録するなどの記録で知られる。また、蝶の研究・収集などでも有名。
夫人は朝香宮鳩彦王第一王女 紀久子(1911年-1989年)。嫡子は直要(なおもと・1936年-2008年・鍋島報效会会長、日本ゴルフ協会常任理事)。
直泰は自動車マニアとしても知られ、1935年にはイスパノ・スイザK6をベアシャシー(ボディがない状態)で輸入、自邸内の小屋で自らデザインした2ドアクーペボディを、約半年かけて日本人職人に製作・架装させた。完成当初のボディカラーはナス紺と溜色(小豆色)のコンビネーションだったと言われるが、その後も昭和40年頃まで、塗色の変更、ホイールカバーの取り外し(ワイアホイールをそのまま見せる)、バンパーを二分割にする等の改良を積み重ね、死去するまでナンバーを付けて時折実用に供し続けた。このイスパノ・スイザは1983年、直要が佐賀県立博物館に管理を委託、約25年間にわたり、同博物館1階ホールに展示されていたが、2008年になってトヨタ博物館に寄託されることになった。