鍋島直映
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鍋島 直映(なべしま なおみつ、1872年8月20日(明治5年7月17日) - 1943年(昭和18年)12月10日[1])は、旧佐賀藩主・鍋島家の12代当主。11代直大の嫡男。正二位勲三等侯爵。夫人は黒田長知の娘の禎子。弟妹に南部信孝、鍋島直縄(旧肥前国鹿島藩主鍋島直彬養子・子爵)、朗子(前田利嗣継室)、伊都子(梨本宮守正王妃)、茂子(九条良政室のちに牧野忠篤継室)、信子(松平恒雄正室)、俊子(松平胖正室)、尚子(柳沢保承正室)。
生涯[編集]
1891年(明治24年)3月にイギリスに留学し、ケンブリッジ大学を1898年(明治31年)12月に卒業し、1899年(明治32年)8月に帰国、同年11月28日に禎子と結婚する。1904年(明治37年)、外務省嘱託となり大韓帝国および満洲に出張する。再び1906年に韓国に渡り、統監府より同地における農業調査を嘱託された。1915年(大正4年)、従三位となる。1921年(大正10年)、先代の直大が没してからは家督相続・侯爵を襲爵し貴族院議員となった。震災後は松濤にあった鍋島農場や屋敷地を解放し、被災者や外国人を積極的に入居させ、道会の松村介石を呼び神山町 (渋谷区)に教会を建てさせるなどし、以降この松濤は財界人や政府要人なども移り住んで高級住宅街となった。
1925年に正三位、1933年に従二位となる。1936年に勲四等瑞宝章を叙勲。1943年(昭和18年)、73歳で没す。家督は嫡男の直泰が継いだ。
人物[編集]
- 財団法人鍋島報效会(昭和15年8月20日)の創設者として、郷土の佐賀の文化振興や人材育成に力を注いだ。
- 明治天皇「鍋島は神のような人柄だから」と評するほど信任が厚かった。
栄典[編集]
脚注[編集]
- ^ 『平成新修旧華族家系大成』下巻(霞会館、1996年)p.265
- ^ 『官報』第1351号「叙任及辞令」1887年12月28日。
- ^ 『官報』第6135号「叙任及辞令」1903年12月12日。
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
参考文献[編集]
- 美術人名辞典(思文堂)
- 徴古館HP
- 鍋島直映公傳(鍋島報效会)
日本の爵位 | ||
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先代: 鍋島直大 |
侯爵 (佐賀)鍋島家第2代 1921年 - 1943年 |
次代: 鍋島直泰 |