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'''シルヴァン・カンブルラン'''(Sylvain Cambreling, [[1948年]][[7月2日]] - )は、[[フランス]]の指揮者。
'''シルヴァン・カンブルラン'''(Sylvain Cambreling, [[1948年]][[7月2日]] - )は、[[フランス]]の指揮者。


[[アミアン]]の生まれ。[[パリ国立高等音楽・舞踊学校|パリ音楽院]]で[[トロンボーン]]を専攻し、当初はトロンボーン奏者として[[リヨン国立管弦楽団]]などで活動する。[[1975年]]に同楽団で指揮者としてデビューし、[[ブザンソン国際音楽祭|ブザンソン指揮者コンクール]]で第1位。[[1980年代]]に[[ベルギー王立歌劇場]]の音楽総監督に就任し、総裁の[[ジェラール・モルティエ]]と共に様々な演出家を起用してオペラの上演を行った。[[アンサンブル・アンテルコンタンポラン]]にもたびたび客演し、[[現代音楽]]も得意としている。その後[[フランクフルト歌劇場]]の音楽総監督を務めたが、財政難(自己資金まで使ってポスターを作って貼った)で辞任。現在は[[バーデンバーデン・フライブルクSWR交響楽団]](旧南西ドイツ放送交響楽団)の首席指揮者で、[[ドナウエッシンゲン]]などで現代音楽を頻繁に取り上げる一方、モルティエに呼ばれて[[ルール・トリエンナーレ]]や[[オペラ・バスティーユ]]にもたびたび客演している。
[[アミアン]]の生まれ。[[パリ国立高等音楽・舞踊学校|パリ国立高等音楽院]]で[[トロンボーン]]を専攻し、当初はトロンボーン奏者として[[リヨン国立管弦楽団]]などで活動する。[[1975年]]に同楽団で指揮者としてデビューし、[[ブザンソン国際音楽祭|ブザンソン指揮者コンクール]]で第1位。[[1980年代]]に[[ベルギー王立歌劇場]]の音楽総監督に就任し、総裁の[[ジェラール・モルティエ]]と共に様々な演出家を起用してオペラの上演を行った。[[アンサンブル・アンテルコンタンポラン]]にもたびたび客演し、[[現代音楽]]も得意としている。その後[[フランクフルト歌劇場]]の音楽総監督を務めたが、財政難(自己資金まで使ってポスターを作って貼った)で辞任。現在は[[バーデンバーデン・フライブルクSWR交響楽団]](旧南西ドイツ放送交響楽団)の首席指揮者で、[[ドナウエッシンゲン]]などで現代音楽を頻繁に取り上げる一方、モルティエに呼ばれて[[ルール・トリエンナーレ]]や[[オペラ・バスティーユ]]にもたびたび客演している。


2010年4月から[[読売日本交響楽団]]の常任指揮者に就任予定である。
2010年4月から[[読売日本交響楽団]]の常任指揮者に就任予定である。

2009年9月15日 (火) 20:16時点における版

シルヴァン・カンブルラン(Sylvain Cambreling, 1948年7月2日 - )は、フランスの指揮者。

アミアンの生まれ。パリ国立高等音楽院トロンボーンを専攻し、当初はトロンボーン奏者としてリヨン国立管弦楽団などで活動する。1975年に同楽団で指揮者としてデビューし、ブザンソン指揮者コンクールで第1位。1980年代ベルギー王立歌劇場の音楽総監督に就任し、総裁のジェラール・モルティエと共に様々な演出家を起用してオペラの上演を行った。アンサンブル・アンテルコンタンポランにもたびたび客演し、現代音楽も得意としている。その後フランクフルト歌劇場の音楽総監督を務めたが、財政難(自己資金まで使ってポスターを作って貼った)で辞任。現在はバーデンバーデン・フライブルクSWR交響楽団(旧南西ドイツ放送交響楽団)の首席指揮者で、ドナウエッシンゲンなどで現代音楽を頻繁に取り上げる一方、モルティエに呼ばれてルール・トリエンナーレオペラ・バスティーユにもたびたび客演している。

2010年4月から読売日本交響楽団の常任指揮者に就任予定である。

先代
ジョン・プリッチャード
ベルギー王立歌劇場音楽総監督
1981-1991
次代
アントニオ・パッパーノ
先代
ガリー・ベルティーニ
フランクフルト歌劇場音楽総監督
フランクフルト・ムゼウム管弦楽団音楽監督

1993–1997
次代
パオロ・カリニャーニ
先代
ミヒャエル・ギーレン
バーデンバーデン・フライブルクSWR交響楽団首席指揮者
1999–
次代
先代
スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ
読売日本交響楽団常任指揮者
2010(予定)–
次代