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'''梶原 政景'''(かじわら まさかげ、[[1547年]]([[天文 (元号)|天文]]16年) - [[1615年]][[元和 (日本)|元和]]元年))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[武将]]。[[太田資正]]の次男で、[[太田氏資]]の異母弟。母は[[大石定久]]の娘。没年は[[1623年]]とも。美濃守。
'''梶原 政景'''(かじわら まさかげ、[[天文 (元号)|天文]]16年[[1547年]])) - [[元和 (日本)|元和]]元年([[1615年]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期の[[武将]]。岩付太田氏である[[太田資正]]の次男で、[[後北条氏|北条家]]臣として活動した[[太田氏資]]の異母弟。母は[[大石定久]]の娘。官位は[[従五位下]]美濃守。通称は梶原源太


== 生涯 ==
梶原上野介未亡人の養子となり、梶原を称した。梶原姓を称した時期には諸説ある。「梶原源太」を称したとされるが、[[鎌倉時代]]の[[梶原氏]]との関係は不詳である。
梶原上野介未亡人の養子となり、梶原の名字を称した。梶原姓を称した時期には諸説ある。'''「梶原源太」'''を称したとされるが、[[鎌倉時代]]の[[梶原氏]]との関係は不詳である。


父と共に反[[後北条氏]]的な人物だったため、親北条氏の立場をとる兄に[[1564年]]、父と共に[[岩槻城]]から追放された。そのため、父と共に[[常陸国]]の[[佐竹氏]]を頼り、その家臣となった。[[佐竹義重 (十八代当主)|佐竹義重]]の[[小田氏治]]討伐で氏治を破り、その功績から[[小田城]]を与えられた。兄氏資の死後に、その後釜を狙一時[[後北条氏|北条氏]]に寝返ったが、父の資正の仲介により帰参している。以後は[[1577年]]に、初陣の[[北条氏直]]による攻撃を受けるなど後北条氏との戦いを継続し、[[里見義頼]]や[[徳川家康]]と連携し挟撃を画策するなど反北条の活動を続けた。[[小田原の役]]後は佐竹氏の命令で[[植田城]]に居城を移した。、[[文禄の役]]にも、渡海している。[[関ヶ原の戦い]]ののち、佐竹氏の[[秋田藩|秋田]]転封に従ったがのち離反[[結城秀康]]の家臣として2000石で仕え[[大坂の役|大坂の陣]]にも秀康の家臣として従軍している。墓所は[[福井市]][[禅林寺]]
父と共に反[[後北条氏|北条氏]]的な人物だったため、[[北条氏康]]の娘を娶り、親北条氏の立場をとる兄によって{{和暦|1564}}、父と共に[[岩槻城]]から追放された。そのため、父と共に[[常陸国]]の[[佐竹氏]]当主・[[佐竹義重 (十八代当主)|佐竹義重]]を頼り、その家臣となった。
佐竹義重の[[小田氏治]]討伐では小田氏治を破り、その功績から[[小田城]]を与えられた。しかし、氏資の死後に、その後釜を狙って一時[[後北条氏|北条氏]]に寝返ったが、父の資正の仲介により帰参している。
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== 関連項目 ==
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*[[雪の峠・剣の舞]]
*[[雪の峠・剣の舞]]


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2009年7月25日 (土) 16:32時点における版

梶原 政景(かじわら まさかげ、天文16年(1547年)) - 元和元年(1615年))は、戦国時代から江戸時代前期の武将。岩付太田氏である太田資正の次男で、北条家臣として活動した太田氏資の異母弟。母は大石定久の娘。官位は従五位下美濃守。通称は梶原源太。

生涯

梶原上野介未亡人の養子となり、梶原の名字を称した。梶原姓を称した時期には諸説ある。「梶原源太」を称したとされるが、鎌倉時代梶原氏との関係は不詳である。

父と共に反北条氏的な人物だったため、北条氏康の娘を娶り、親北条氏の立場をとる兄によって1564年(永禄7年)、父と共に岩槻城から追放された。そのため、父と共に常陸国佐竹氏当主・佐竹義重を頼り、その家臣となった。

佐竹義重の小田氏治討伐では小田氏治勢を破り、その功績から小田城を与えられた。しかし、兄の氏資の横死後に、その後釜を狙って一時期北条氏に寝返ったが、父の資正の仲介により帰参している。

以後は1577年に、初陣の北条氏直による攻撃を受けて応戦するなど、後北条氏との戦いを繰り広げた。また、安房国戦国大名里見義頼や、三河国・遠江国・駿河国を領する徳川家康と連携し、北条氏の挟撃を画策するなど、反北条の活動を続けた。

1590年(天正18年)、小田原の役後は、佐竹氏の命令で植田城に居城を移した。翌年、父・資正が没。後には文禄の役にも出陣、渡海して朝鮮半島にも出兵している。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの後、日和見的態度の終始して減封された佐竹氏の秋田転封に従うも、後に辞して北ノ庄藩結城秀康に2,000石で仕えた。

1614年(慶長19年)から始まる大坂の陣にも秀康の家臣として従軍している。

1615年(元和元年)没。没年には1623年(元和9年)説もある。

墓所は福井市禅林寺

関連項目