「吉田文三郎」の版間の差分

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== 初代 ==
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(生年不詳 - [[宝暦]]10年([[1760年]][[119日]][[浄瑠璃作者]]としても著名で初代[[吉田冠子]]の名を名乗った。
(生年不詳 - [[宝暦]]10年[[1月19日 (旧暦)|1月19日]]([[1760年]][[36日]]))[[浄瑠璃作者]]としても著名で初代[[吉田冠子]]の名を名乗った。


[[大坂]]の生まれ、父は吉田流の元祖の初代[[吉田三郎兵衛]]。幼名を八之助。幼少から父を陶酔し[[1717年]]に「[[国性爺後日合戦]]」の錦舎役で初舞台を踏む。
[[大坂]]の生まれ、父は吉田流の元祖の初代[[吉田三郎兵衛]]。幼名を八之助。幼少から父を陶酔し[[1717年]]に「[[国性爺後日合戦]]」の錦舎役で初舞台を踏む。
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== 2代目 ==
== 2代目 ==
([[享保]]17年([[1732年]]) - [[寛政]]2年([[1791年]][[124日]]))
([[享保]]17年([[1732年]]) - [[寛政]]2年[[12月4日 (旧暦)|12月4日]]([[1791年]][[18日]]))


大阪の生まれ、祖父は初代三郎兵衛、父は初代文三郎。弟に2代目文吾。初名を初代文吾、後に2代目三郎兵衛を経て、[[1761年]]に2代目文三郎を襲名。
大阪の生まれ、祖父は初代三郎兵衛、父は初代文三郎。弟に2代目文吾。初名を初代文吾、後に2代目三郎兵衛を経て、[[1761年]]に2代目文三郎を襲名。
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== 3代目 ==
== 3代目 ==
(生年不詳 - [[文政]]12年([[1829年]][[17日]]
(生年不詳 - [[文政]]12年[[1月7日 (旧暦)|1月7日]]([[1829年]][[210日]]))


大阪の生まれ、2代目文三郎の門弟。初名を初代[[吉田千四]]。[[1779年]]に竹本座が初舞台。[[1806年]]に座頭。[[1821年]]に3代目文三郎を襲名。
大阪の生まれ、2代目文三郎の門弟。初名を初代[[吉田千四]]。[[1779年]]に竹本座が初舞台。[[1806年]]に座頭。[[1821年]]に3代目文三郎を襲名。

2009年6月24日 (水) 15:51時点における版

吉田 文三郎(よしだ ぶんざろう)は、人形浄瑠璃の人形遣い。代々墓所は大阪市中央区法善寺にある。

初代

(生年不詳 - 宝暦10年1月19日1760年3月6日))浄瑠璃作者としても著名で初代吉田冠子の名を名乗った。

大坂の生まれ、父は吉田流の元祖の初代吉田三郎兵衛。幼名を八之助。幼少から父を陶酔し1717年に「国性爺後日合戦」の錦舎役で初舞台を踏む。

三人遣いの発案者とされ「蘆屋道満大内鑑」の安倍保名「仮名手本忠臣蔵」の由良之助「義経千本桜」の狐忠信等現在に残される名作を演じ「まるで人形が生きているようだ」と評されるほどだった。

長年大坂竹本座座頭として勤めたが、太夫との衝突も多く何度も退座、1759年には一門を引き連れて一座を建設を計画中の1760年に没。

実子に初代吉田文吾(後の2代目文三郎)、2代目文吾

2代目

享保17年(1732年) - 寛政2年12月4日1791年1月8日))

大阪の生まれ、祖父は初代三郎兵衛、父は初代文三郎。弟に2代目文吾。初名を初代文吾、後に2代目三郎兵衛を経て、1761年に2代目文三郎を襲名。

女方、立ち役に優れた。作者の名の2代目冠子も名乗る。

3代目

(生年不詳 - 文政12年1月7日1829年2月10日))

大阪の生まれ、2代目文三郎の門弟。初名を初代吉田千四1779年に竹本座が初舞台。1806年に座頭。1821年に3代目文三郎を襲名。