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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* [[妹尾豊三郎]] 『出雲富田城史』 山中鹿介幸盛公顕彰会、1978年 山中家系図
* [[妹尾豊三郎]]『出雲富田城史』 山中鹿介幸盛公顕彰会、1978年 山中家系図より
* [[米原正義]] 編『山中鹿介のすべて』(新人物往来社)、1989年





2009年4月20日 (月) 06:41時点における版

山中 幸満(やまなか ゆきみつ、生年不詳 - 永正3年5月3日1506年5月25日[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。)は戦国大名である尼子氏の家臣。名を十四郎と称した。妻は川副光氏の娘、曾孫は尼子十勇士の筆頭、山中鹿之介。出雲山中氏の祖、父は山中幸久、母は桜井尾張守為信の娘、子は山中満盛、山中満重、古志判官光政の室。

経歴

長禄元年(1457年)、父・幸久が兄の尼子清定により幽閉され、55歳で病死した。これにより幸満が後を継いだ。尼子の当主清定とまだ対立していたものの仕える事を許された。

家督を継いだ後のことは、ほとんど不明である。しかし子の山中勝重がまだ若い為、月山富田城奪取戦に参加したと思われる。その戦の後、当主尼子経久富田城に入城し、幸満と勝重を家老に任じた。永正3年5月3日に没した。[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。法名は乗雲である。

参考文献

  • 妹尾豊三郎『出雲富田城史』 山中鹿介幸盛公顕彰会、1978年 山中家系図より
  • 米原正義 編『山中鹿介のすべて』(新人物往来社)、1989年