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太宗の執り成しで陳柳の罪は不問とされたが、政治的に失脚した陳柳は陳守度を恨みながら病没したという。 |
太宗の執り成しで陳柳の罪は不問とされたが、政治的に失脚した陳柳は陳守度を恨みながら病没したという。 |
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2008年12月15日 (月) 13:57時点における版
陳柳(ちん りゅう、ベトナム語:Trần Liễu(チャン・リェウ)、 1211年 - 1251年)は、大越陳朝の王族・武将。陳朝の初代皇帝太宗の実兄である。陳朝成立後、安生王に封じられた。子に陳国峻(陳興道)がいる。
初め、李朝最後の皇帝李昭皇(弟・陳煚(後の太宗)の妻)の実姉順天を妻として弟を補佐していたが、叔父で陳朝の事実上の最高指導者であった陳守度と政治の実権を争う。
ところが、1237年に陳守度が、太宗に子供が出来ない事を理由に太宗と李昭皇を離縁させ、代わりに順天を強引に召しだして陳柳と離縁させて、新しい皇后とする。
これに激怒した陳柳は謀叛の兵を挙げるも、これが陳柳の失脚を図る陳守度の思う壺となり、反乱軍はたちまちのうちに打ち破られてしまう。
太宗の執り成しで陳柳の罪は不問とされたが、政治的に失脚した陳柳は陳守度を恨みながら病没したという。