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2008年9月5日 (金) 22:01時点における版
ラリベラは、エチオピア北部の街。何世紀にも渡る巡礼地であり、エチオピアではアクスムに次ぐ聖地の一つである。アクスムとは異なり、住民はほぼ全員がエチオピア正教徒である。ラリベラはかつてエルサレムがムスリムの手に陥落した際に、新たなエルサレムになろうとした。だから、街の建造物群には、エルサレムの建造物群の名前や並びを模したものがある。
世界遺産「ラリベラの岩窟教会群」がある。
地理
エチオピアのアムハラ州セミエン・ウォロ圏にある。
1994年の国勢調査では、人口8484人だったが[1]、2005年のエチオピア中央統計局のデータでは、14668人(男性7049人、女性7619人)となっている.[2]。
歴史
12世紀後半から13世紀初頭にエチオピアを支配したザグウェ朝の聖ゲブレ・メスケル・ラリベラの治世には、この街はまだロハという名だった。この王が生まれた時、蜂が群がったといい、彼の母やロハの住民はこれを名君誕生の吉兆と捉え、「蜂に選ばれた者」を意味する「ラリベラ」の名を与えたという。「ラリベラ」という街の名は、この王にちなんで付けられたものである(以下区別のため「ラリベラ」は街、「ラリベラ王」は人物を表すものとする)。この街の地名や石窟教会の配置には、ラリベラ王が若き日に過ごした聖地エルサレムの名前や街並みが反映されている。
ラリベラ王は1187年にエルサレムがムスリムに占領された時に、ザグウェ朝の首都ロハ(ラリベラ)を新たなエルサレムにしようとした。その結果、街には聖書にでてくる地名が付けられ、街を流れる川もヨルダン川と改称された。
この街に最初に訪れたヨーロッパ人は、ポルトガルの探検家ペロ・ダ・コヴィリャン (Pêro da Covilhã) であった。また、近い時期にはポルトガルの大使に随行した司祭フランシスコ・アルヴァレスがおり、彼はラリベラについて驚嘆とともに著書の中に書き記しているが、同時にその威容の描写が当時のヨーロッパ人たちに信じてもらえる可能性には悲観的だった[3]。アルヴァレスの著書には、ラムゾが1550年に石窟教会の図面を付録しているが、図面の出所は不明である。
次に記録を残しているのは、クリストヴァン・ダ・ガマに仕えた戦士ミゲル・デ・カスタニョゾであった.[4]。彼は1544年にエチオピアを去ったが、以降1865年から1870年にフリードリヒ・ゲルハルト・ロールスが訪れるまで300年以上にわたり、ヨーロッパ人の記録は途絶える。
その他
- ラリベラ空港
- 大市場、学校、病院などがあり、近郊にはラリベラオオカミが出没する。
注
- ^ CSA 2005 National Statistics, Table B.3
- ^ [1]
- ^ Francisco Alvarez, The Prester John of the Indies translated by C.F. Beckingham and G.W.B. Huntingford (Cambridge: Hakluyt Society, 1961), p. 226. Beckingham and Huntingford add an appendix which discuss Alvarez's description of these churches, pp. 526-42.
- ^ De Castanhoso's account is translated in R.S. Whiteway, The Portuguese Expedition to Ethiopia (London: The Hakluyt Society, 1902), pp. 94-98.