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'''内藤 清長'''(ないとう きよなが、[[文亀]]1年([[1501年]]) - [[永禄]]7年[[8月12日 (旧暦)|8月12日]]([[1564年]]9月17日))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。父は[[内藤義清|内藤右京進「義清」]]。弟に甚五左衛門忠郷(正成の父)。通称は'''弥次右衛門'''。
'''内藤 清長'''(ないとう きよなが、[[文亀]]1年([[1501年]]) - [[永禄]]7年[[8月12日 (旧暦)|8月12日]]([[1564年]]9月17日))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。父は[[内藤義清|内藤右京進「義清」]]。弟に甚五左衛門忠郷(正成の父)。通称は'''弥次右衛門'''。


== 来歴人物 ==
== 来歴人物 ==
[[三河国|三河]]の[[内藤氏]]は[[藤原秀郷]]または[[藤原道長]]の末裔を称する内藤氏の一派であると自称するが、具体的な事跡が明らかになるのは清長の父の「義清」の代からである。清長は[[松平清康]]、[[松平広忠]]に仕え、[[天文 (元号)|天文]]11年([[1542年]])織田勢が上野城([[愛知県]][[豊田市]])を攻めた際に、甥の[[内藤正成]]ら一族と共に防戦し、数十人の織田勢を討ち取ったという(「[[寛政譜]]」新訂13巻183項)。[[愛知県]][[額田郡]][[幸田町]]にある荻城跡碑文によれば、[[永禄]]6年([[1563年]])に[[三河一向一揆]]が起こると主家から離反して一揆側に与し、敗れて荻城に蟄居となりこの地で没したという。
[[三河国|三河]]の[[内藤氏]]は[[藤原秀郷]]または[[藤原道長]]の末裔を称する内藤氏の一派であると自称するが、具体的な事跡が明らかになるのは清長の父の「義清」の代からである。清長は[[松平清康]]、[[松平広忠]]に仕え、[[天文 (元号)|天文]]11年([[1542年]])織田勢が上野城([[愛知県]][[豊田市]])を攻めた際に、甥の[[内藤正成]]ら一族と共に防戦し、数十人の織田勢を討ち取ったという(「[[寛政譜]]」新訂13巻183項)。[[愛知県]][[額田郡]][[幸田町]]にある荻城跡碑文によれば、[[永禄]]6年([[1563年]])に[[三河一向一揆]]が起こると主家から離反して一揆側に与し、敗れて荻城に蟄居となりこの地で没したという。



2008年7月31日 (木) 15:54時点における版

内藤 清長(ないとう きよなが、文亀1年(1501年) - 永禄7年8月12日1564年9月17日))は、戦国時代武将。父は内藤右京進「義清」。弟に甚五左衛門忠郷(正成の父)。通称は弥次右衛門

来歴・人物

三河内藤氏藤原秀郷または藤原道長の末裔を称する内藤氏の一派であると自称するが、具体的な事跡が明らかになるのは清長の父の「義清」の代からである。清長は松平清康松平広忠に仕え、天文11年(1542年)織田勢が上野城(愛知県豊田市)を攻めた際に、甥の内藤正成ら一族と共に防戦し、数十人の織田勢を討ち取ったという(「寛政譜」新訂13巻183項)。愛知県額田郡幸田町にある荻城跡碑文によれば、永禄6年(1563年)に三河一向一揆が起こると主家から離反して一揆側に与し、敗れて荻城に蟄居となりこの地で没したという。

  • 注 生没年は「藩翰譜」に拠る。遠江国二俣城において64歳で亡くなったという。「寛政譜」では、二俣城を守備して武田勢と戦い、年8月12日にこの地で卒したとしている。

実子は内藤家長。また内藤信成の養父である。法名は「幽鑑」。墓所は愛知県安城市姫小川町姫150の誓願寺。