「ナバス・デ・トロサの戦い」の版間の差分
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2008年7月6日 (日) 10:31時点における版
『ナバス・デ・トロサの戦い』(マドリードにあるスペイン上院議事堂にて掲示) | |
戦争:レコンキスタ | |
年月日:1212年7月16日 | |
場所:スペイン、アンダルシア州ハエン近郊のナバス・デ・トロサ | |
結果:カトリック連合軍の圧勝 | |
交戦勢力 | |
カスティーリャ王国 アラゴン王国 ナバラ王国 ポルトガル王国 テンプル騎士団 サンチャゴ騎士団 カラトラヴァ騎士団 オスピタル騎士団など |
ムワッヒド朝 |
指導者・指揮官 | |
カスティーリャ王アルフォンソ8世 ナバラ王国サンチョ7世 アラゴン王ペドロ2世など |
カリフ・ムハンマド・ナースィル |
戦力 | |
約50,000 | 約125,000 |
損害 | |
約2,000 | 90,000~100,000 |
ナバス・デ・トロサの戦い(es: Batalla de Las Navas de Tolosa 、ar: معركة العقاب )とは、1212年7月16日にイベリア半島、現アンダルシア州ハエン(Jaen)近郊のナバス・デ・トロサで、カスティリア王をはじめとするカトリック諸国連合軍とムワッヒド朝のカリフ率いるイスラム諸国連合軍の間で行なわれた戦いである。この戦いの意義の大きさから当時の年代記作者たちは単に「あの戦い」(La Batalla)と記すことが多い。
戦前のイベリア半島情勢
1195年、アラコルスの戦いでカスティリア王アルフォンソ8世は、勢いに乗るムワッヒド朝のカリフ・ヤアクーブ・マンスールに破れ、この戦いでムワッヒド朝は、現エストレマドゥーラ州のトルヒーヨ(Trujillo)、プラセンシア(Plasencia)、カスティーリャ・ラ・マンチャ州タラベラ(Talavera)、クエンカ(Cuenca)などの重要な町を奪った。そのためタホ川流域以南は依然としてイスラム勢力の支配下に置かれることになった。しかも同年、その敗戦につけこんだレオン王アルフォンソ9世(位1188年 – 1230年)から攻撃を受けた。これは退けたものの、このようにカスティーリャ王国は、東隣のアラゴン連合王国とは条約で国境を定めていたが、西隣のレオン王国やポルトガル王国とは国境紛争が繰り返されている状況であった。
カトリック連合軍の集結と脱落者の続出
1199年にヤアクーブ・マンスールを継いだムハンマド・ナースィルは、1211年、10万を越える大軍を率いてジブラルタル海峡を渡って、カラトラヴァ騎士団の守るサルヴァティエラ(Salvatierra)の要塞を占領して、カトリック諸国の心胆寒からしめた。ムワッヒド朝が新たに攻撃の準備をしていることを知ると、アルフォンソ8世は、教皇インノケンティウス3世とトレドの大司教は、カトリック諸国間で争うのをやめ、カスティーリャ王アルフォンソ8世の指揮下で一致団結して対イスラム戦争を戦うように命じた。カトリック諸国側は教皇の仲裁のもとでカスティリア王アルフォンソ8世、ナバラ王サンチョ7世、アラゴン王ペドロ2世が同盟を確約した。カトリック連合軍の構成は次のようであった。アルフォンソ8世の指揮する軍勢は、カスティーリャの20の町の軍団の連合であった。メディナ・デル・カンポ(Medina del Campo)、マドリード(Madrid)、ソリア(Soria)、アルマサン(Almazán)、メディナセリ(Medinaceli)とサン・エステバン・デ・ゴルメス(San Esteban de Gormaz)などの町が含まれていた。ビスカヤ(Vizcaya)の領主ディエゴ・ロペス2世デ・アロ(Diego López II de Haro)が旗の持ち手になった。 それからナバラ王サンチョ7世、アラゴン王ペドロ2世、ポルトガル王 アフォンソ2世の軍である。ポルトガル軍はこの戦いには参戦したものの王自身は参戦しなかった。それからテンプル騎士団、サンチャゴ騎士団、カラトラヴァ騎士団、オスピタル騎士団などの騎士修道会やフランスの司教に率いられた騎士らが加わった。レオン王アルフォンソ9世は、アルフォンソ8世と敵対していたために来なかったが、レオン王国の騎士たちは王の名代としてはせ参じた。1212年の夏にこうしてカトリック連合軍はトレドに集結した。 そしてムハンマド・ナースィル率いる親征軍と歴史的な決戦をすべく南方へ向かって進軍した。アルフォンソ8世にとってはアラコルスの雪辱を果たす好機でもあった。しかし、教皇至上主義の騎士たちの一部が連合軍から刃こぼれするように脱落していった。つまり、キリスト教連合軍の指揮官アルフォンソ8世に従ってついてきただけの義勇兵的な騎士たちには、政治的な了解などの強い動機があったわけではなかった。だから、なれない気候条件は、彼らにとって暑くて、不快であるのに耐えられなかったのである。このようにカトリック連合軍にはかならずしも足並みがそろっているわけではなく、当初6万を超えた兵力は5万程度まで減少した[1]。
ナバス・デ・トロサの戦闘経過
アンダルシア地方のハエン(Jaén)の住民の間の小競り合いに半ば介入する形で、ハエン近郊のナバス・デ・トロサで1212年7月16日に両軍は戦闘を開始した。カトリック連合軍の配置は、カスティーリャ王と騎士修道会の軍勢が中央に陣取り、ナバラ王、アヴィラ市、セゴビア市、メディナ・デル・カンポ(バリャドリッド)市の軍勢が右翼、左翼にアラゴン王の軍勢が陣取っていた。 はじめは小競り合いのような戦いが繰り返された。カトリック連合軍は約5万、ムワッヒド軍は約125,000の兵力であった。
ムワッヒド軍は正面からの衝突をなるべく避けてカトリック連合軍が疲れてくるのを待つ戦術をとった。イスラム軍はカトリック軍の2倍をはるかに凌駕する兵力であり、後退するようにみせかけて、主力の厚みをいかして一気に反攻するつもりであった。つまり、カトリック連合軍を挑発しておいて、混乱しているところをアンダルスと本国のベルベル人で構成された圧倒的な戦力をもって、イベリア半島から一気にたたきだすつもりであった。 イスラム教徒軍が後退をはじめたとき、それを見ていたカトリック連合軍の陣中では、アルフォンソ8世は、自分の臣下である騎士たちや王子の正面にいた。アルフォンソ8世はカトリック王たち共通のそして自分自身に課せられた使命を果たすチャンスとみてとった。 アルフォンソ8世は、ムハンマド・ナースィルの本陣の反対側のわき腹に突撃をかけた[2]。この攻撃はカトリック連合軍の士気を奮い立たせた。一方、ムワッヒド軍は大混乱に陥った。アラゴン軍やナバラ軍の小競り合いのような戦いも形勢が一気に傾いた。
このときに伝説のように語られるナバラ王サンチョ7世の突撃が行なわれた。ナバラ王は、揮下の精鋭を率いて、ムハンマド・ナースィルの本陣めがけて突攻し、本陣のテントを鎖のように守る屈強な奴隷による親衛隊を打ち破ってテントまで切り込んだ。ムハンマド・ナースィルとその軍勢は慌てふためいて9万とも10万ともいえる犠牲者を出して敗走した。 一方、カトリック連合軍の戦死者は2000人ほどであった。主な犠牲者は、騎士修道会に集中していた。カラトラヴァ騎士団の旗手(bannerman)であるペドロ・ゴメス・デ・アセベド(Pedro Gomez de Acevedo)、サンチャゴ騎士団修道長(comendator)アルフォンソ・フェルナンデス・デ・バリャドーレス (Alfonso Fernandez de Valladares)、サンチャゴ騎士団隊長(master)ペドロ・アリアス(Pedro Arias、大怪我を負い、8月3日死亡)、テンプル騎士団隊長ゴメス・ラミレス(Gomez Ramirez)、カラトラヴァ騎士団隊長ルイ・ディアス(Ruy Diaz)は、指揮ができないほどの悲惨な怪我をしていた。 一方、敗北したムハンマド・ナースィルは本国へ逃げ帰ることはできたものの、翌年マラケシュで事故死した。
ナバラ王国の盾形紋章は、この戦いを契機に赤地に金の鎖が描かれて中央にエメラルドが配される図柄となった。この紋章は今もスペイン王国の紋章の右下部分に見ることができる。
ナバス・デ・トロサの戦いのもたらした影響
ナバス・デ・トロサの戦いでムワッヒド朝の受けた打撃は壊滅的ともいえるもので、以後イベリア半島のイスラム勢力は衰退と後退の一途をたどることになった。そしてムワッヒド朝の本国であるマグリブにおいてもやや時期が遅れたものの衰退に拍車をかけることになった。一方でカトリック諸国の「レコンキスタ」の進展にははずみをつけることになった。 カトリック諸国間の内紛や1225年の大飢饉がなければ、もっとレコンキスタが加速したであろうと言われている。ナバス・デ・トロサの戦いのあと、カスティーリャ王国はバエサ(Baeza)とウベダ(Úbeda)を獲得した。これはナバス・デ・トロサ近郊の主要な砦であり、アンダルシアへ侵入する玄関口ともいえる拠点であった。カスティーリャ王国の「レコンキスタ」は、 フェルナンド3世のとき、1236年にコルドバ、1246年にハエン、1248年にセビリャを占領して飛躍的に進展した。新たにアルコス(Arcos)、メディナ-シドニア(Medina-Sidonia)、ヘレス(Jerez)、カデス(Cádiz)を獲得している。1251年にはナスル朝グラナダ王国を除いてタイファ諸国はすべて併合された。
一方、アラゴン王国はハイメ1世のとき、1228年 から4年をかけてバレアレス諸島を征服し、1238年9月にバレンシアを占領した。バレンシアは13世紀の地中海においてジェノヴァやヴェネツィアに次ぐ商業都市となった。アラゴン王国は、バレアレス諸島からサルディニアやシチリア島までの西地中海域を支配する「帝国」へと成長した。
脚注
参考HP及び文献
- “Battle of Las Navas de Tolosa”. Reader's Companion to Military History. 9 february閲覧。
(en:Battle of Las Navas de Tolosa 英語版からの引用)
- 鈴木康久『西ゴート王国の遺産―近代スペイン成立への歴史』中公新書1283,1996年 ISBN 4121012836