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'''日野 業子'''(ひの なりこ、[[正平 (日本)|正平]]6年/[[観応]]2年([[1351年]]) - [[応永]]12年[[7月11日 (旧暦)|7月11日]]([[1405年]][[8月5日]]))は、[[室町時代]]の人物。[[室町幕府]]3代将軍・[[足利義満]]の[[正室]]である。父は[[日野時光]]。兄弟に[[日野資康]]ほか。[[位階]]は[[従一位]]。[[准后]]。
'''日野 業子'''(ひの なりこ、[[正平 (日本)|正平]]6年/[[観応]]2年([[1351年]]) - [[応永]]12年[[7月11日 (旧暦)|7月11日]]([[1405年]][[8月5日]]))は、[[室町時代]]の人物。[[室町幕府]]3代将軍・[[足利義満]]の[[正室]]である。父は[[日野時光]]。兄弟に[[日野資康]]ほか。[[位階]]は[[従一位]]。[[准后]]。


宮中に影響力を持っていた叔母の[[日野宣子]]が仲介し、1375年に足利義満と結婚する。義満が京都に[[花の御所]]を造営し、共に移る。業子は[[和歌]]に秀でていたことから義満の寵愛を受けたとされ、義満の計らいで従一位・准后となった。二人の間に成長した子はいない。1405年に55歳で死去。法名は定心院。
宮中に影響力を持っていた叔母の[[日野宣子]](岡松一品)が仲介し、1375年に足利義満と結婚する。義満が京都に[[花の御所]]を造営し、共に移る。業子は[[和歌]]に秀でていたことから義満の寵愛を受けたとされ、義満の計らいで従一位・准后となった。二人の間に成長した子はいない。1405年に55歳で死去。法名は定心院。


業子と義満の婚礼により、[[持明院統]]の[[公家]]であった[[日野家]]は朝幕政界に影響力を強める。義満はその後、姪に当たる[[日野康子]]と結婚し、康子が正室の座を引き継ぐ。
業子と義満の婚礼により、[[持明院統]]の[[公家]]であった[[日野家]]は朝幕政界に影響力を強める。義満はその後、姪に当たる[[日野康子]]と結婚し、康子が正室の座を引き継ぐ。

2008年6月24日 (火) 04:22時点における版

日野 業子(ひの なりこ、正平6年/観応2年(1351年) - 応永12年7月11日1405年8月5日))は、室町時代の人物。室町幕府3代将軍・足利義満正室である。父は日野時光。兄弟に日野資康ほか。位階従一位准后

宮中に影響力を持っていた叔母の日野宣子(岡松一品)が仲介し、1375年に足利義満と結婚する。義満が京都に花の御所を造営し、共に移る。業子は和歌に秀でていたことから義満の寵愛を受けたとされ、義満の計らいで従一位・准后となった。二人の間に成長した子はいない。1405年に55歳で死去。法名は定心院。

業子と義満の婚礼により、持明院統公家であった日野家は朝幕政界に影響力を強める。義満はその後、姪に当たる日野康子と結婚し、康子が正室の座を引き継ぐ。