「交響曲第2番 (ブルックナー)」の版間の差分

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* この曲は、ウィーン・フィルへの献呈も申し出たが「演奏不可能」と拒絶された。その後[[フランツ・リスト]]への献呈も申し出たが、果たせなかった。
* この曲は、ウィーン・フィルへの献呈も申し出たが「演奏不可能」と拒絶された。その後[[フランツ・リスト]]への献呈も申し出たが、果たせなかった。
* 全休止が多いので「休止交響曲」の俗称で呼ばれることもあった。また、自作の「[[ミサ曲第3番 (ブルックナー)|ミサ曲ヘ短調]]」の「キリエ」の主題が引用された箇所がある。
* 全休止が多いので「休止交響曲」の俗称で呼ばれることもあった。また、自作の「[[ミサ曲第3番 (ブルックナー)|ミサ曲ヘ短調]]」の「キリエ」の主題が引用された箇所がある。
* ブルックナーの初期の交響曲は、[[交響曲ヘ短調 (ブルックナー)|ヘ短調]]・[[交響曲第1番 (ブルックナー)| (ブルックナー)|第1番]]・[[交響曲第0番 (ブルックナー)| (ブルックナー)|第0番]]・第2番で、様々なスタイルを模索し、第2番で一つのスタイルを確立した、とも評される。実際、これらの中では、第2番がそれ以降の交響曲のスタイルに最も近い。
* ブルックナーの初期の交響曲は、[[交響曲ヘ短調 (ブルックナー)|ヘ短調]]・[[交響曲第1番 (ブルックナー)|第1番]]・[[交響曲第0番 (ブルックナー)|第0番]]・第2番で、様々なスタイルを模索し、第2番で一つのスタイルを確立した、とも評される。実際、これらの中では、第2番がそれ以降の交響曲のスタイルに最も近い。
* 1872年稿は、のちの[[交響曲第8番 (ブルックナー)|第8交響曲]]のように第2楽章が[[スケルツォ]]、第3楽章が緩徐楽章となっていた。しかし1873年の改訂で楽章順序は入れ替わり、第2楽章が緩徐楽章、第3楽章がスケルツォとなった。その後の改訂もこの楽章順を引き継いでいる。
* 1872年稿は、のちの[[交響曲第8番 (ブルックナー)|第8交響曲]]のように第2楽章が[[スケルツォ]]、第3楽章が緩徐楽章となっていた。しかし1873年の改訂で楽章順序は入れ替わり、第2楽章が緩徐楽章、第3楽章がスケルツォとなった。その後の改訂もこの楽章順を引き継いでいる。
* 1873年稿のみ、終楽章の最後に「第4トロンボーン」が加わる。他の[[トロンボーン]]は「A([[アルトトロンボーン|アルト]])・T([[トロンボーン|テナー]])・B([[バストロンボーン|バス]])」と記してあるが、これは「4」とのみ記されている。この部分の[[チェロ]]・[[コントラバス]]の音型の音量補強を意図したものと思われるが、この作曲家の[[管弦楽法|オーケストレーション]]としても他に似たような例はない。
* 1873年稿のみ、終楽章の最後に「第4トロンボーン」が加わる。他の[[トロンボーン]]は「A([[アルトトロンボーン|アルト]])・T([[トロンボーン|テナー]])・B([[バストロンボーン|バス]])」と記してあるが、これは「4」とのみ記されている。この部分の[[チェロ]]・[[コントラバス]]の音型の音量補強を意図したものと思われるが、この作曲家の[[管弦楽法|オーケストレーション]]としても他に似たような例はない。

2008年6月22日 (日) 09:29時点における版

アントン・ブルックナー交響曲第2番ハ短調は、1872年に最初の稿が完成された交響曲であり、彼が番号を与えた2番目の交響曲にあたる。

作曲の経緯

ブルックナーは、交響曲第1番のあと、1869年にニ短調の交響曲を作曲した。当初、この作品に「第2番」の番号を与える意図を持っていたが、できばえに自信をなくしてこの曲を引っ込めてしまった(このニ短調の曲は、現在「交響曲第0番」と呼ばれている曲である)。

現在第2番と呼ばれている(作曲者自身も最終的に「第2番」の番号を与えた)作品は、その次に書かれたものである。1871年に着手され、1872年に初稿が完成した。同じ年、この稿による初演を指揮者デッソフにより計画されるも、中止された。翌1873年に改訂がなされた。同じ年、ブルックナー自身がウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮して、この曲は初演された。

1876年、この曲の再演に際して細部の改訂がなされた。

1877年、ヨハン・ヘルベックの助言により、この曲は大幅改訂された。

その後、初版出版に際して1891年~1892年に細部の改訂がなされた。

演奏時間は初稿が約70分、第2稿が約60分である。

楽器編成

フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、ティンパニ、第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラチェロコントラバス

出版の経緯

1892年、ドブリンガー社から初版が出版された。これは、1892年までの改訂に加え、さらに弟子の校訂が加わっていると言われる。

その後、国際ブルックナー協会の原典版編纂により、1838年にハース版が出版された。ところがこのハース版は、1877年稿をベースにし、一部1872年稿を採用したものとなっていた。ローベルト・ハース自身そのことを明記して出版したのだが、このような校訂姿勢は、のちにレオポルト・ノヴァークが批判するところとなった。

国際ブルックナー協会の校訂作業がノヴァークに代わった後、まず1965年に、1877年稿に基づくノヴァーク版が出版された。これはハース版から1872年稿を排除したものである。当時は単に「ノヴァーク版」と称されたが、後述の通り、後に1872年稿が出版されたため、この譜面は「第2稿」とも呼ばれるようになった。ノヴァークは1872年稿の校訂・出版も計画していたが、それを実現せず没した。

その後キャラガンが、この交響曲の校訂を引き継ぎ、1872年稿・1873年稿を校訂するとともに、1877年稿を再校訂した。1872年稿・1873年稿については、1991年にクルト・アイヒホルン指揮リンツ・ブルックナー管弦楽団がCD録音した。これらが収録されたCDの解説書には、キャラガン自身によるこれらの稿の解説が含まれていた。2005年には、国際ブルックナー協会から1872年稿が出版され「第1稿」と呼称するようになった。同時にそれまで出版されていたノヴァーク版第2稿もキャラガンが再校訂し、「1877/1892年稿」と称して出版されるようになった。

ハース版として出版された譜面には、「vi-」「-de」と記されて囲まれた箇所がある(第2楽章・第4楽章)。これは1877年稿では本来存在しない部分であり、ハースもそのことを明記していた。ノヴァーク版第2稿は1877年稿を再現したとはいえ、ハースが「vi-」「-de」で囲った部分の譜面はそのまま残した形で出版した。

なお、1872年稿と1873年稿は相違点がかなり存在すると言われているが、現在の出版譜は「1872年稿=第1稿」「1877/1892年稿=第2稿」として扱われている。1873年稿については現時点では未出版である(ただし、出版されている1872年稿の中で、一部言及・併記されている)。

エピソード

  • 1873年、ブルックナーはワーグナーと面会する。この次に作曲された交響曲第3番の草稿と、この第2番の両方の譜面をワーグナーに提示し、どちらかを献呈したいと申し出た。ワーグナーは、この第2番ではなく、第3番の方に興味を示した。
  • この曲は、ウィーン・フィルへの献呈も申し出たが「演奏不可能」と拒絶された。その後フランツ・リストへの献呈も申し出たが、果たせなかった。
  • 全休止が多いので「休止交響曲」の俗称で呼ばれることもあった。また、自作の「ミサ曲ヘ短調」の「キリエ」の主題が引用された箇所がある。
  • ブルックナーの初期の交響曲は、ヘ短調第1番第0番・第2番で、様々なスタイルを模索し、第2番で一つのスタイルを確立した、とも評される。実際、これらの中では、第2番がそれ以降の交響曲のスタイルに最も近い。
  • 1872年稿は、のちの第8交響曲のように第2楽章がスケルツォ、第3楽章が緩徐楽章となっていた。しかし1873年の改訂で楽章順序は入れ替わり、第2楽章が緩徐楽章、第3楽章がスケルツォとなった。その後の改訂もこの楽章順を引き継いでいる。
  • 1873年稿のみ、終楽章の最後に「第4トロンボーン」が加わる。他のトロンボーンは「A(アルト)・T(テナー)・B(バス)」と記してあるが、これは「4」とのみ記されている。この部分のチェロコントラバスの音型の音量補強を意図したものと思われるが、この作曲家のオーケストレーションとしても他に似たような例はない。

外部リンク