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'''ハマト・ガデル'''([[ヘブライ語]]:'''חמת גדר''')は[[イスラエル]]の[[ティベリアス湖]]に近い[[ヤルムーク川]]にある地名。その名『ガダラの温泉』は50℃以下の鉱物泉が複数あることに由来する。ガダラは現在の[[ヨルダン]]領ウンム・カイス[[:en:Umm Quais|**]]であり、ここから4kmの距離にある。 |
'''ハマト・ガデル'''([[ヘブライ語]]:'''חמת גדר''')は[[イスラエル]]の[[ティベリアス湖]]に近い[[ヤルムーク川]]にある地名。その名『ガダラの温泉』は50℃以下の鉱物泉が複数あることに由来する。ガダラは現在の[[ヨルダン]]領ウンム・カイス[[:en:Umm Quais|**]]であり、ここから4kmの距離にある。 |
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ハマト・ガデル |
ハマト・ガデルはイスラエル、ヨルダン、[[シリア]]の国境地帯に位置する<ref>グーグルアース上ではヨルダン領に位置するが、英語原文ではイスラエル側の資料を参照しイスラエルの温泉として紹介している。日本語版のカテゴリー分類では便宜上現在の温泉・行楽施設をイスラエル、その他遺跡をヨルダンとする。</ref>。 |
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ハマト・ガデルの古名は現地語の地名『エル・ハンマ』([[アラビア語]]:الحمّـة、[[ヘブライ語]]:אל חמה)に残り、近くの小山の名称テル・バニは『浴場』を意味する[[ギリシア語]]が訛ったもの。 |
ハマト・ガデルの古名は現地語の地名『エル・ハンマ』([[アラビア語]]:الحمّـة、[[ヘブライ語]]:אל חמה)に残り、近くの小山の名称テル・バニは『浴場』を意味する[[ギリシア語]]が訛ったもの。 |
2008年5月28日 (水) 18:24時点における版
ハマト・ガデル(ヘブライ語:חמת גדר)はイスラエルのティベリアス湖に近いヤルムーク川にある地名。その名『ガダラの温泉』は50℃以下の鉱物泉が複数あることに由来する。ガダラは現在のヨルダン領ウンム・カイス**であり、ここから4kmの距離にある。
ハマト・ガデルはイスラエル、ヨルダン、シリアの国境地帯に位置する[1]。
ハマト・ガデルの古名は現地語の地名『エル・ハンマ』(アラビア語:الحمّـة、ヘブライ語:אל חמה)に残り、近くの小山の名称テル・バニは『浴場』を意味するギリシア語が訛ったもの。
歴史
古代・中世
ハマト・ガデルはローマ時代にすでに行楽地ガダラとして有名だった。
2世紀にローマ軍がガダラに駐屯したさい浴場施設の建設が始まったとされる。この史跡に残る証拠から建設は2期にわたることがわかっている。浴場施設のほとんどはローマ・ビザンツ期に建設され、イスラム期には既存の構造物に大幅な変更が加えられた[2]。
温泉水は行楽と治癒を目的に使用された。
建築物の一部は7世紀の地震で損傷を受け、ダマスカスに政権を置いたウマイヤ朝のカリフがこれを修復した。9世紀になるとこの浴場は放棄され、その跡地には厚く土砂が積もった。
ここにはローマ劇場があるが、これは3世紀の建築で2000席を有する。5世紀には大きなシナゴーグが建てられた。
近現代
イギリス領パレスチナ**とフランス領シリア **の境界が1923年に引かれると、エル・ハンマ(現イスラエル)とウンム・カイス(現ヨルダン)とその間にあるハマト・ガデルはイギリス領入りした[3]。
第1次中東戦争ののちイスラエル領になったこの地はシリア軍に占拠された。
1967年の6日間戦争中にイスラエル軍がゴラン高原を制圧すると、イスラエル人が自由にこの地に出入できるようになり、行楽地としての開発がすすんだ。健康リゾートの開設は1977年のことである[4]。
外部リンク
- Hamat Gader Information(英語)
- Hamat Gader イスラエル外務省のサイトより
- [1]
- Al-Hamma
参考資料
- ^ グーグルアース上ではヨルダン領に位置するが、英語原文ではイスラエル側の資料を参照しイスラエルの温泉として紹介している。日本語版のカテゴリー分類では便宜上現在の温泉・行楽施設をイスラエル、その他遺跡をヨルダンとする。
- ^ Hamat Gader Information Site
- ^ "The Line of June 4, 1967", Frederic C. Hof, Jewish Virtual Library
- ^ Hamat Gader in the 20th Century