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現審判部長の[[井野修]]の後任として次期部長となることが有力視される。就任すれば[[1990年]]~[[1996年]]まで在任していた[[山本文男]]以来となる関西所属の審判部長となる。
現審判部長の[[井野修]]の後任として次期部長となることが有力視される。就任すれば[[1990年]]~[[1996年]]まで在任していた[[山本文男]]以来となる関西所属の審判部長となる。


[[神戸市]]に住んでおり、地元少年野球の顧問もつとている。歌が非常にうまい事でも知られる。
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2008年4月28日 (月) 01:08時点における版

友寄 正人(ともよせ まさと、1958年1月26日~)は、セントラル・リーグプロ野球審判員沖縄県出身であり、同県出身のプロ野球審判員第一号である。審判員袖番号22

来歴・人物

小禄高校、沖縄国際大学を経てビル・キナモン審判学校卒業。

自身には野球のプレイ経験はほとんどないものの、若い頃から審判に興味を持っており、小禄高校時代に沖縄県高野連に審判志願したという。既に大学2年生の時には、高校野球沖縄県大会の審判員を任されるほどであった。

1978年よりセントラル・リーグ審判員。入局以来関西審判部に所属している。抜擢されるのが早く、1980年には22歳という若さで一軍デビューを果たす。1987年オールスターゲームに初出場し、第3戦(阪神甲子園球場)で球審を勤める。1992年には日本シリーズの初舞台を踏み、第3戦の球審を務めた。2003年に副部長に昇進(30代で主任昇格、45歳で副部長は、異例のスピード出世といえる)。2007年10月20日には、セントラル・リーグクライマックスシリーズ第2ステージ第3戦・巨人-中日戦にて通算2500試合出場を達成した。ベテランの域に入った現在でも若々しく、一軍の試合に帯同し続けており、このペースでいけば3000試合出場も十分可能である。

オールスターゲームには5回、日本シリーズには1992年1994年1996年2002年2004年2006年の計12回出場している。このうち1998年2002年2006年に第1戦の、2004年に第7戦の、それぞれ重要な試合で球審を務めている。

マスクは、2005年まではスロートガード装着型のものを使用していたが、2006年からはスロートガード一体型のマスクを使用しているときもある。

マイクによる場内説明の際には「審判の友寄です。」の前口上が印象的である。ストライク宣告時には、特徴的な振りかぶるようなジェスチャーであったが、現在はガッツポーズのようになっている。

現審判部長の井野修の後任として次期部長となることが有力視される。就任すれば1990年1996年まで在任していた山本文男以来となる関西所属の審判部長となる。


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