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'''ブルターニュ継承戦争'''(Breton War of Succession1341-1364年)は[[百年戦争]]初期において、[[ブルターニュ公]]の継承争いにより起きた戦争で[[イングランド]]王、[[フランス]]王が介入し、両者の[[代理戦争]]の様相を示した。イングランドの支援を受けて1364年の[[オーレの戦い]]で勝利した[[ジャン4世 (ブルターニュ公)|ジャン4世]]<ref>イングランド側の記録ではジャン・ド・モンフォールをジャン4世とし、以降1代づつずれるが、ジャン・ド・モンフォールをブルターニュ公に含めないフランス側の表記の方が一般的なため、それに従った。</ref>がフランスの支援を受けた[[シャルル (ブルターニュ公)|シャルル・ド・ブロワ]]を破って最終的に公位についたが、フランス王[[シャルル5世 (フランス王)|シャルル5世]]と和解し、封臣として封建的臣従の礼を取った。
'''ブルターニュ継承戦争'''(ブルターニュけいしょうせんそう、英語:Breton War of Succession, 1341 - 1364年)は[[百年戦争]]初期において、[[ブルターニュ公]]の継承争いにより起きた戦争で[[イングランド]]王、[[フランス王国|フランス]]王が介入し、両者の[[代理戦争]]の様相を示した。イングランドの支援を受けて1364年の[[オーレの戦い]]で勝利した[[ジャン4世 (ブルターニュ公)|ジャン4世]]<ref>イングランド側の記録ではジャン・ド・モンフォールをジャン4世とし、以降1代づつずれるが、ジャン・ド・モンフォールをブルターニュ公に含めないフランス側の表記の方が一般的なため、それに従った。</ref>がフランスの支援を受けた[[シャルル (ブルターニュ公)|シャルル・ド・ブロワ]]を破って最終的に公位についたが、フランス王[[シャルル5世 (フランス王)|シャルル5世]]と和解し、封臣として封建的臣従の礼を取った。
[[Image:Battle of Auray.jpg|right|220px|thumb|オーレの戦い]]
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ジャンヌの夫シャルル・ド・ブロワの母はフランス王[[フィリップ6世 (フランス王)|フィリップ6世]]の姉であり、フィリップ6世は甥夫妻の相続を支持(コンフランの決定)した。ジャン・ド・モンフォールは対抗上、既に百年戦争でフランスと対立状態にあったイングランド王[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]をフランス王と認めて、その支援を求めた。
ジャンヌの夫シャルル・ド・ブロワの母はフランス王[[フィリップ6世 (フランス王)|フィリップ6世]]の姉であり、フィリップ6世は甥夫妻の相続を支持(コンフランの決定)した。ジャン・ド・モンフォールは対抗上、既に百年戦争でフランスと対立状態にあったイングランド王[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]をフランス王と認めて、その支援を求めた。


興味深いことにエドワード3世は[[女系継承]]によりフランス王位を主張しており、それに対しフィリップ6世は男系継承優先を主張してフランス王となったが、[[ブルターニュ]]ではそれぞれ反対の相続理由を主張する候補を支持したことになる。しかし、[[継承制度]]は明確に決まっているわけではなく、地域によっても異なるため、特に矛盾とは思われていない。ジャン・ド・モンフォールの主張は、ブルターニュ公は、既にフランス王国の「同輩pair」になっており、最年長の男子が最年長の女子よりも相続権が上に位置するイル=ド=フランスの慣習を適用するべきだと主張しており、一方で、ブルターニュの慣習では女子による相続が排除されない(しかも過去度女婿による相続が行われている)ので、パンティエーブル女伯の継承順位が上だと一般に認められていた(だからこそエドワード世は、彼女がブロワと結婚する前には自分の弟との結婚を成立させようとしていた
興味深いことにエドワード3世は[[女系継承]]によりフランス王位を主張しており、それに対しフィリップ6世は男系継承優先を主張してフランス王となったが、[[ブルターニュ]]ではそれぞれ反対の相続理由を主張する候補を支持したことになる。しかし、継承制度は明確に決まっているわけではなく、地域によっても異なるため、特に矛盾とは思われていない。ジャン・ド・モンフォールの主張は、ブルターニュ公は、既にフランス王国の「同輩」(pair)になっており、最年長の男子が最年長の女子よりも相続権が上に位置する[[イル=ド=フランス]]の慣習を適用するべきだと主張しており、一方で、ブルターニュの慣習では女子による相続が排除されない(しかも過去3度女婿による相続が行われている)ので、パンティエーブル女伯の継承順位が上だと一般に認められていた(だからこそエドワード3世は、彼女がブロワと結婚する前には自分の弟との結婚を成立させようとしていた)


==ジャン・ド・モンフォールの捕獲==
==ジャン・ド・モンフォールの捕獲==
ブルターニュの貴族の多くはシャルル・ド・ブロワを支持していたため、ジャン・ド・モンフォールは開戦後、先手を取り首都の[[ナント]]、[[リモージュ]]等の主要都市を押さえ、8月までに[[レンヌ]]、[[ヴァンヌ]]を含むブルターニュ公領の大部分を支配下におさめた。
ブルターニュの貴族の多くはシャルル・ド・ブロワを支持していたため、ジャン・ド・モンフォールは開戦後、先手を取り首都の[[ナント]]、[[リモージュ]]等の主要都市を押さえ、8月までに[[レンヌ]]、[[ヴァンヌ]]を含むブルターニュ公領の大部分を支配下におさめた。


1341年当時には、イングランドとフランスは停戦協定を結んでいたため、エドワード3世は動けなかったが、フィリップ6世は国内問題であるとして積極的にシャルル・ド・ブロワを支援して、10月にシャントソーChamptoceauxの戦いで勝利し、ナントを陥落させジャン・ド・モンフォールを捕虜とした。
1341年当時には、イングランドとフランスは停戦協定を結んでいたため、エドワード3世は動けなかったが、フィリップ6世は国内問題であるとして積極的にシャルル・ド・ブロワを支援して、10月にシャントソー(Champtoceaux)の戦いで勝利し、ナントを陥落させジャン・ド・モンフォールを捕虜とした。


==ジャンヌ伯妃の徹底抗戦==
==ジャンヌ伯妃の徹底抗戦==
しかし、ジャン・ド・モンフォールの妻ジャンヌは女傑といわれ、息子のジャン(後のジャン4世)の後見人として徹底抗戦を行った。ブロワ派の勢力の強い東部を防衛するのは無理と判断して西ブルターニュのエヌボン(Hennebont)に籠城した。シャルル・ド・ブロワの包囲を受けると、配下の騎士を連れて包囲を突破し[[ブレスト_(フランス)|ブレスト]]に行き、援軍を引きつれて再びエヌボンの包囲を突破し城に戻ったという武勇伝が伝えられている。1342年8月まで耐え抜いた結果、イングランドとフランスの停戦期間が終了し、ノーサンプトン伯ウリアム、サー・[[ウォルター・マーニー]]の援軍が到着し、ブレストの海戦でジェノヴァ艦隊を破った。これを見たシャルル・ド・ブロワは包囲を解いて撤退している。
しかし、ジャン・ド・モンフォールの妻ジャンヌは女傑といわれ、息子のジャン(後のジャン4世)の後見人として徹底抗戦を行った。ブロワ派の勢力の強い東部を防衛するのは無理と判断して西ブルターニュのエヌボン(Hennebont)に籠城した。シャルル・ド・ブロワの包囲を受けると、配下の騎士を連れて包囲を突破し[[ブレスト_(フランス)|ブレスト]]に行き、援軍を引きつれて再びエヌボンの包囲を突破し城に戻ったという武勇伝が伝えられている。1342年8月まで耐え抜いた結果、イングランドとフランスの停戦期間が終了し、ノーサンプトン伯ウリアム、サー・[[ウォルター・マーニー]]の援軍が到着し、ブレストの海戦で[[ジェノヴァ共和国|ジェノヴァ]]艦隊を破った。これを見たシャルル・ド・ブロワは包囲を解いて撤退している。


イングランド軍の[[カレー (フランス)|カレー]]侵攻を恐れて、フィリップ6世がフランス軍をブルターニュから引き上げたため、シャルル・ド・ブロワは独力で戦うことになったが、戦闘指揮官として有能だったため、レンヌ、ヴァンヌを奪うことに成功した。これにより、モンフォール派の離脱が相次ぐようになった。この頃の戦いで百年戦争の原因の1人であり、イングランド側にいていた[[ロベール3世・ダルトワ]]が戦死している(母がブルターニュ公家出身)
イングランド軍の[[カレー (フランス)|カレー]]侵攻を恐れて、フィリップ6世がフランス軍をブルターニュから引き上げたため、シャルル・ド・ブロワは独力で戦うことになったが、戦闘指揮官として有能だったため、レンヌ、ヴァンヌを奪うことに成功した。これにより、モンフォール派の離脱が相次ぐようになった。この頃の戦いで百年戦争の原因の1人であり、イングランド側にいていた[[ロベール3世・ダルトワ]]母がブルターニュ公家出身)が戦死している


==イングランドの直接介入==
==イングランドの直接介入==
1342年11月にエドワード3世はブレストに到着しヴァンヌを包囲したが、1343年1月に[[ローマ教皇]]の仲裁によりフランス王と停戦し、ヴァンヌは教皇の保護下に入った。停戦の結果として、1343年9月にジャン・ド・モンフォールは釈放されたが、東部の領地に留まることを強制されており、その影響力は弱く、ヴァンヌを奪ったがモンフォール派の離脱が続いた。
1342年11月にエドワード3世はブレストに到着しヴァンヌを包囲したが、1343年1月に[[ローマ教皇]]の仲裁によりフランス王と停戦し、ヴァンヌは教皇の保護下に入った。停戦の結果として、1343年9月にジャン・ド・モンフォールは釈放されたが、東部の領地に留まることを強制されており、その影響力は弱く、ヴァンヌを奪ったがモンフォール派の離脱が続いた。


1344年3月ブレストとヴァンヌの連絡を絶つためにシャルル・ド・ブロワは[[カンペール]]を包囲し、5月に陥落させたが、その時1400から2000人といわれる住民を虐殺した。守備兵の、イングランド兵は身代金のために捕虜とされたが、ブルターニュとノルマンディの兵はパリに送られ叛逆者として処刑された。
1344年3月ブレストとヴァンヌの連絡を絶つためにシャルル・ド・ブロワは[[カンペール]]を包囲し、5月に陥落させたが、その時1400から2000人といわれる住民を虐殺した。守備兵のうち、イングランド兵は身代金のために捕虜とされたが、ブルターニュとノルマンディの兵はパリに送られ叛逆者として処刑された。


==シャルル・ド・ブロワ捕獲==
==シャルル・ド・ブロワ捕獲==
1345年3月にジャン・ド・モンフォールは監視を逃れてイングランドに逃亡した。エドワード3世は1345年夏にフランスとの戦争を再開し、[[アキテーヌ]]に兵を送ると共に、ブルターニュにもノーサンプトン伯とジャン・ド・モンフォールを送った。ジャン・ド・モンフォールはカンペールの奪回を計ったが失敗し、まもなく病死した。これにより、わずか5歳のジャン4世が跡を継いだ。母ジャンヌは精神異常の兆候を示しており、モンフォール派は実質的に[[ロンドン]]からの指令を受けたブレストのイングランド守備隊によって支えられている状況だった。
1345年3月にジャン・ド・モンフォールは監視を逃れてイングランドに逃亡した。
エドワード3世は1345年夏にフランスとの戦争を再開し、[[アキテーヌ]]に兵を送ると共に、ブルターニュにもノーサンプトン伯とジャン・ド・モンフォールを送った。ジャン・ド・モンフォールはカンペールの奪回を計ったが失敗し、まもなく病死した。これにより、わずか5歳のジャン4世が跡を継いだ。母ジャンヌは精神異常の兆候を示しており、モンフォール派は実質的に[[ロンドン]]からの指令を受けたブレストのイングランド守備隊によって支えられている状況だった。


ノーサンプトン伯はパンティエーヴル伯領のブルターニュ北岸に侵攻したが、ラ・ロシュ・デリアンを獲得したに留まった。1346年になるとエドワード3世はノルマンディに侵攻したため、フランス軍の主力はノルマンディに移動した。ノーサンプトン伯も副隊長のトーマス・ダグワースに託してエドワード3世に加わっている(8月26日に[[クレシーの戦い]])。6月20日にダグワースのイングランド軍とシャルル・ド・ブロワはラ・ロシュ・デリアンで戦い、シャルル・ド・ブロワは敗北し捕虜となった。
ノーサンプトン伯はパンティエーヴル伯領のブルターニュ北岸に侵攻したが、ラ・ロシュ・デリアンを獲得したに留まった。1346年になるとエドワード3世はノルマンディに侵攻したため、フランス軍の主力はノルマンディに移動した。ノーサンプトン伯も副隊長のトーマス・ダグワースに託してエドワード3世に加わっている(8月26日に[[クレシーの戦い]])。6月20日にダグワースのイングランド軍とシャルル・ド・ブロワはラ・ロシュ・デリアンで戦い、シャルル・ド・ブロワは敗北し捕虜となった。


==終わらない戦い==
==終わらない戦い==
こうしてモンフォール派、ブロワ派ともに当主がいなくなったが、ブロワ派はパンティエーヴル女伯ジャンヌの元で抵抗を続けた。このため、モンフォール伯妃ジャンヌとあわせて「2人のジャンヌの戦い」と呼ばれることがある。
こうしてモンフォール派、ブロワ派ともに当主がいなくなったが、ブロワ派はパンティエーヴル女伯ジャンヌの元で抵抗を続けた。このため、モンフォール伯妃ジャンヌとあわせて「2人のジャンヌの戦い」と呼ばれることがある。


両派の戦いは、その後も続き、トーマス・ダグワースは実質的なブルターニュ公代理として、パンティエーヴル伯領に攻勢をかけたが、1350年に戦死している。1351年には両派から30人の[[騎士]]が場所、日時を決めて対戦する「30人の戦い」という[[騎士道物語]]のような事件も起きており、[[フロワサールの年代記]]に記述されている。当然ながら、戦いの情勢には何の影響も与えなかった。
両派の戦いは、その後も続き、トーマス・ダグワースは実質的なブルターニュ公代理として、パンティエーヴル伯領に攻勢をかけたが、1350年に戦死している。1351年には両派から30人の[[騎士]]が場所、日時を決めて対戦する「30人の戦い」という[[騎士道物語]]のような事件も起きており、[[ジャン・フロワサール|フロワサール]]の年代記に記述されている。当然ながら、戦いの情勢には何の影響も与えなかった。


1352年に、フランス側はネスレ卿ギー将軍をブルターニュに派遣し、本格的にブロワ派の支援を再開した。1352年8月のモーロンの戦いでは、ギー将軍はクレシーの戦いの敗戦の教訓から全軍に馬を下りて徒歩での戦いを命じ、イングランド側の[[ロングボウ]]の脅威を減少させようとしたが、激戦の末、イングランド側が勝利を収めた。
1352年に、フランス側はネスレ卿ギー将軍をブルターニュに派遣し、本格的にブロワ派の支援を再開した。1352年8月のモーロンの戦いでは、ギー将軍はクレシーの戦いの敗戦の教訓から全軍に馬を下りて徒歩での戦いを命じ、イングランド側の[[ロングボウ]]の脅威を減少させようとしたが、激戦の末、イングランド側が勝利を収めた。
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==終結==
==終結==
1364年ジャン4世、イングランドの[[ジョン・シャンドス]]が率いるモンフォール軍とシャルル・ド・ブロワ、ナバラ王との[[コシュレルの戦い]]で名声を得たベルトラン・デュ・ゲクラン率いるブロワ軍が[[オーレの戦い]]で激突した。両者とも長い争いに決着を付ける覚悟を決めており激戦となったが、モンフォール軍の勝利に終わり、シャルル・ド・ブロワは戦死し、ベルトラン・デュ・ゲクランは捕虜となった。パンティエーヴル女伯ジャンヌも相続権の放棄を了承し、ジャン4世が唯一のブルターニュ公となった。
1364年ジャン4世、イングランドの[[ジョン・シャンドス]]が率いるモンフォール軍とシャルル・ド・ブロワ、[[カルロス2世 (ナバラ王)|ナバラ王カルロス2世]]との[[コシュレルの戦い]]で名声を得た[[ベルトラン・デュ・ゲクラン]]率いるブロワ軍が[[オーレの戦い]]で激突した。両者とも長い争いに決着を付ける覚悟を決めており激戦となったが、モンフォール軍の勝利に終わり、シャルル・ド・ブロワは戦死し、ベルトラン・デュ・ゲクランは捕虜となった。パンティエーヴル女伯ジャンヌも相続権の放棄を了承し、ジャン4世が唯一のブルターニュ公となった。


フランス王シャルル5世がジャン4世と和解し、封建的臣従の礼(オマージュ)を取らせることにして(1366年までジャンはパリに出頭しなかった)、ブルターニュ公として承認したため、ブルターニュ継承戦争は正式に終結した。同時に、相続における男系の優位も確認された。しかし、フランス国王とのつながりの強いブルターニュの有力領主(フランス大元帥になったオリビエ・ド・クリソンら)を抑えるために、ジャン4世とイングランドとの関係は続き、1372年にイングランドとブルターニュが同盟を結んだことが発覚した為(秘密同盟であったためこの同盟の結果再び与えられたリッチモンド伯の称号は、イングランド向けの外交文書でしか名乗っていない)、1373年にジャン4世は追放され、1378年十二月十八日にはブルターニュはフランス王領への併合が宣言された。しかし、独立を望むブルターニュの抵抗は強く、1379年の四月には、ローアン、ボマノワールらの有力家系からの八人の代表、そしてパンティエーヴル女伯らによる抵抗運動が表面化し、1379年八月三日にはジャン四世は再びブルターニュに上陸した。フランス側は、一三八〇年九月十六日のシャルル5世の死などで混乱しており、1381年に和解が成立し、第二次ゲランド条約によりジャン4世が復位した。
フランス王シャルル5世がジャン4世と和解し、封建的臣従の礼オマージュを取らせることにして(1366年までジャンはパリに出頭しなかった)、ブルターニュ公として承認したため、ブルターニュ継承戦争は正式に終結した。同時に、相続における男系の優位も確認された。


しかし、フランス国王とのつながりの強いブルターニュの有力領主(フランス大元帥になったオリヴィエ・ド・クリソンら)を抑えるために、ジャン4世とイングランドとの関係は続き、1372年にイングランドとブルターニュが同盟を結んだことが発覚したため(秘密同盟であったためこの同盟の結果再び与えられたリッチモンド伯の称号は、イングランド向けの外交文書でしか名乗っていない)、1373年にジャン4世は追放され、1378年12月18日にはブルターニュはフランス王領への併合が宣言された。

しかし、独立を望むブルターニュの抵抗は強く、1379年4月にはローアン、ボマノワールらの有力家系からの8人の代表、そしてパンティエーヴル女伯らによる抵抗運動が表面化し、1379年8月3日にジャン4世は再びブルターニュに上陸した。フランス側は、1380年9月16日のシャルル5世の死などで混乱しており、1381年に和解が成立し、第2次ゲランド条約によりジャン4世が復位した。


==脚注==
==脚注==
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*Guizot, Franc,ois Pierre Guillaume,A Popular History of France from the Earliest Times, Volume 2, [[http://www.gutenberg.orgetext/11952 Project Gutenberg]]
*Guizot, Franc,ois Pierre Guillaume,A Popular History of France from the Earliest Times, Volume 2, [[http://www.gutenberg.orgetext/11952 Project Gutenberg]]


[[Category:百年戦争|ふるたにけいしうせんそう]]
[[Category:百年戦争|ふるたにけいしうせんそう]]
[[Category:ブルターニュ|けいしうせんそう]]
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[[br:Brezel hêrezh dugelezh Breizh]]
[[br:Brezel hêrezh dugelezh Breizh]]

2008年3月22日 (土) 11:18時点における版

ブルターニュ継承戦争(ブルターニュけいしょうせんそう、英語:Breton War of Succession, 1341 - 1364年)は百年戦争初期において、ブルターニュ公の継承争いにより起きた戦争でイングランド王、フランス王が介入し、両者の代理戦争の様相を示した。イングランドの支援を受けて1364年のオーレの戦いで勝利したジャン4世[1]がフランスの支援を受けたシャルル・ド・ブロワを破って最終的に公位についたが、フランス王シャルル5世と和解し、封臣として封建的臣従の礼を取った。

オーレの戦い

背景

ブルターニュ人は古代にブリテン島から移住してきたケルト人で民族的な繋がりがあることと、中世になってブルターニュ公がイングランドのリッチモンド伯を与えられたことにより、イングランドとの関係は深かった。しかし、アルチュール1世が亡くなった後、アンジュー家に代わって公位についたドルー家はフランス王との関係も良好だった。

ブルターニュ公ジャン3世の父アルチュール2世は最初の妻マリーとの間にジャン3世、ギー等の子供がいたが、2番目の妻モンフォール女伯ヨランド(元スコットランド王アレグザンダー3世の妻)との間にジャン等の子供達を持った。父の死後、公位についたジャン3世はヨランドとその子供である異母弟たちを嫌い、ヨランドの婚姻の無効を申請して、ジャンらの相続権を奪おうとしたが認められなかった。ジャン3世には子供が無く、跡継ぎとして同母弟のギーを指名していたが、1331年にギーは亡くなっている。このため、その娘ジャンヌが跡継ぎと見なされたが、後にジャンとも和解しており、1341年4月30日に亡くなった時には特に跡継ぎを指定しなかった。

このため既にモンフォール伯を相続していたジャン・ド・モンフォールとパンティエーヴル伯を相続していたジャンヌが共にブルターニュ公の相続権を主張した。

ジャンヌの夫シャルル・ド・ブロワの母はフランス王フィリップ6世の姉であり、フィリップ6世は甥夫妻の相続を支持(コンフランの決定)した。ジャン・ド・モンフォールは対抗上、既に百年戦争でフランスと対立状態にあったイングランド王エドワード3世をフランス王と認めて、その支援を求めた。

興味深いことにエドワード3世は女系継承によりフランス王位を主張しており、それに対しフィリップ6世は男系継承優先を主張してフランス王となったが、ブルターニュではそれぞれ反対の相続理由を主張する候補を支持したことになる。しかし、継承制度は明確に決まっているわけではなく、地域によっても異なるため、特に矛盾とは思われていない。ジャン・ド・モンフォールの主張は、ブルターニュ公は、既にフランス王国の「同輩」(pair)になっており、最年長の男子が最年長の女子よりも相続権が上に位置するイル=ド=フランスの慣習を適用するべきだと主張しており、一方で、ブルターニュの慣習では女子による相続が排除されない(しかも過去3度女婿による相続が行われている)ので、パンティエーブル女伯の継承順位が上だと一般に認められていた(だからこそエドワード3世は、彼女がブロワと結婚する前には自分の弟との結婚を成立させようとしていた)。

ジャン・ド・モンフォールの捕獲

ブルターニュの貴族の多くはシャルル・ド・ブロワを支持していたため、ジャン・ド・モンフォールは開戦後、先手を取り首都のナントリモージュ等の主要都市を押さえ、8月までにレンヌヴァンヌを含むブルターニュ公領の大部分を支配下におさめた。

1341年当時には、イングランドとフランスは停戦協定を結んでいたため、エドワード3世は動けなかったが、フィリップ6世は国内問題であるとして積極的にシャルル・ド・ブロワを支援して、10月にシャントソー(Champtoceaux)の戦いで勝利し、ナントを陥落させジャン・ド・モンフォールを捕虜とした。

ジャンヌ伯妃の徹底抗戦

しかし、ジャン・ド・モンフォールの妻ジャンヌは女傑といわれ、息子のジャン(後のジャン4世)の後見人として徹底抗戦を行った。ブロワ派の勢力の強い東部を防衛するのは無理と判断して西ブルターニュのエヌボン(Hennebont)に籠城した。シャルル・ド・ブロワの包囲を受けると、配下の騎士を連れて包囲を突破しブレストに行き、援軍を引きつれて再びエヌボンの包囲を突破し城に戻ったという武勇伝が伝えられている。1342年8月まで耐え抜いた結果、イングランドとフランスの停戦期間が終了し、ノーサンプトン伯ウィリアム、サー・ウォルター・マーニーの援軍が到着し、ブレストの海戦でジェノヴァ艦隊を破った。これを見たシャルル・ド・ブロワは包囲を解いて撤退している。

イングランド軍のカレー侵攻を恐れて、フィリップ6世がフランス軍をブルターニュから引き上げたため、シャルル・ド・ブロワは独力で戦うことになったが、戦闘指揮官として有能だったため、レンヌ、ヴァンヌを奪うことに成功した。これにより、モンフォール派の離脱が相次ぐようになった。この頃の戦いで百年戦争の原因の1人であり、イングランド側に就いていたロベール3世・ダルトワ(母がブルターニュ公家出身)が戦死している。

イングランドの直接介入

1342年11月にエドワード3世はブレストに到着し、ヴァンヌを包囲したが、1343年1月にローマ教皇の仲裁によりフランス王と停戦し、ヴァンヌは教皇の保護下に入った。停戦の結果として、1343年9月にジャン・ド・モンフォールは釈放されたが、東部の領地に留まることを強制されており、その影響力は弱く、ヴァンヌを奪ったがモンフォール派の離脱が続いた。

1344年3月、ブレストとヴァンヌの連絡を絶つためにシャルル・ド・ブロワはカンペールを包囲し、5月に陥落させたが、その時1400から2000人といわれる住民を虐殺した。守備兵のうち、イングランド兵は身代金のために捕虜とされたが、ブルターニュとノルマンディの兵はパリに送られ、叛逆者として処刑された。

シャルル・ド・ブロワ捕獲

1345年3月にジャン・ド・モンフォールは監視を逃れてイングランドに逃亡した。エドワード3世は1345年夏にフランスとの戦争を再開し、アキテーヌに兵を送ると共に、ブルターニュにもノーサンプトン伯とジャン・ド・モンフォールを送った。ジャン・ド・モンフォールはカンペールの奪回を計ったが失敗し、まもなく病死した。これにより、わずか5歳のジャン4世が跡を継いだ。母ジャンヌは精神異常の兆候を示しており、モンフォール派は実質的にロンドンからの指令を受けたブレストのイングランド守備隊によって支えられている状況だった。

ノーサンプトン伯はパンティエーヴル伯領のブルターニュ北岸に侵攻したが、ラ・ロシュ・デリアンを獲得したに留まった。1346年になるとエドワード3世はノルマンディに侵攻したため、フランス軍の主力はノルマンディに移動した。ノーサンプトン伯も副隊長のトーマス・ダグワースに託してエドワード3世に加わっている(8月26日にクレシーの戦い)。6月20日にダグワースのイングランド軍とシャルル・ド・ブロワはラ・ロシュ・デリアンで戦い、シャルル・ド・ブロワは敗北し、捕虜となった。

終わらない戦い

こうしてモンフォール派、ブロワ派ともに当主がいなくなったが、ブロワ派はパンティエーヴル女伯ジャンヌの元で抵抗を続けた。このため、モンフォール伯妃ジャンヌとあわせて「2人のジャンヌの戦い」と呼ばれることがある。

両派の戦いは、その後も続き、トーマス・ダグワースは実質的なブルターニュ公代理として、パンティエーヴル伯領に攻勢をかけたが、1350年に戦死している。1351年には両派から30人の騎士が場所、日時を決めて対戦する「30人の戦い」という騎士道物語のような事件も起きており、フロワサールの年代記に記述されている。当然ながら、戦いの情勢には何の影響も与えなかった。

1352年に、フランス側はネスレ卿ギー将軍をブルターニュに派遣し、本格的にブロワ派の支援を再開した。1352年8月のモーロンの戦いでは、ギー将軍はクレシーの戦いの敗戦の教訓から全軍に馬を下りて徒歩での戦いを命じ、イングランド側のロングボウの脅威を減少させようとしたが、激戦の末、イングランド側が勝利を収めた。

1356年にランカスター伯ヘンリーはブルターニュに入り、レンヌを包囲した。包囲は1357年7月まで続き、ヘンリーは多額の補償金を受け取り包囲を解いた。この時にレンヌ籠城で名を上げたのがブロワ派のブルターニュの騎士ベルトラン・デュ・ゲクランである。ゲクランは、この活躍によりシャルル5世に抜擢されている。

1357年にジャン4世が成人しブルターニュ公になったが、同時にポワティエの戦いの後のイングランド、フランス間の和平協定の中でシャルル・ド・ブロワも釈放されたため、再び2人のブルターニュ公が存在することになった。ブルターニュでも和平の話し合いが始まり、一時はブルターニュを分割することで話がまとまりそうだったが、パンティエーヴル女伯ジャンヌは了承せず、1362年に戦いが再開された。

終結

1364年ジャン4世、イングランドのジョン・シャンドスが率いるモンフォール軍とシャルル・ド・ブロワ、ナバラ王カルロス2世とのコシュレルの戦いで名声を得たベルトラン・デュ・ゲクラン率いるブロワ軍がオーレの戦いで激突した。両者とも長い争いに決着を付ける覚悟を決めており激戦となったが、モンフォール軍の勝利に終わり、シャルル・ド・ブロワは戦死し、ベルトラン・デュ・ゲクランは捕虜となった。パンティエーヴル女伯ジャンヌも相続権の放棄を了承し、ジャン4世が唯一のブルターニュ公となった。

フランス王シャルル5世がジャン4世と和解し、封建的臣従の礼(オマージュ)を取らせることにして(1366年までジャンはパリに出頭しなかった)、ブルターニュ公として承認したため、ブルターニュ継承戦争は正式に終結した。同時に、相続における男系の優位も確認された。

しかし、フランス国王とのつながりの強いブルターニュの有力領主(フランス大元帥になったオリヴィエ・ド・クリソンら)を抑えるために、ジャン4世とイングランドとの関係は続き、1372年にイングランドとブルターニュが同盟を結んだことが発覚したため(秘密同盟であったためこの同盟の結果再び与えられたリッチモンド伯の称号は、イングランド向けの外交文書でしか名乗っていない)、1373年にジャン4世は追放され、1378年12月18日にはブルターニュはフランス王領への併合が宣言された。

しかし、独立を望むブルターニュの抵抗は強く、1379年4月にはローアン、ボマノワールらの有力家系からの8人の代表、そしてパンティエーヴル女伯らによる抵抗運動が表面化し、1379年8月3日にジャン4世は再びブルターニュに上陸した。フランス側は、1380年9月16日のシャルル5世の死などで混乱しており、1381年に和解が成立し、第2次ゲランド条約によりジャン4世が復位した。

脚注

  1. ^ イングランド側の記録ではジャン・ド・モンフォールをジャン4世とし、以降1代づつずれるが、ジャン・ド・モンフォールをブルターニュ公に含めないフランス側の表記の方が一般的なため、それに従った。

参考文献

  • T. F. Tout, The History of England From the Accession of Henry III. to the Death of Edward III. (1216-1377),[Project Gutenberg]
  • Guizot, Franc,ois Pierre Guillaume,A Popular History of France from the Earliest Times, Volume 2, [Project Gutenberg]