「中村芝翫 (4代目)」の版間の差分

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大阪[[道頓堀]]に歌舞伎役者[[中村富四郎]]の長男として生まれる。中村玉太郎、中村駒三郎の芸名を経て、[[1838年]]([[天保]]9年)、[[中村歌右衛門 (4代目)|四代目中村歌右衛門]]の養子となる。同年江戸に下り翌年3月、'''初代[[中村福助]]'''を名乗る。[[1860年]]([[万延]]元年)7月四代目[[中村芝翫]]を襲名。[[1863年]]([[文久]]3年)には[[守田座]]座頭になる。以後は江戸の舞台で活躍する。美しい容貌で、いくらがんばっても本物のように描けないと浮世絵師を嘆かせたという。人気も物凄く、名人と呼ばれた[[市川小團次 (4代目)|四代目市川小團次]]も、芝翫には勝てず、一時は大阪へ帰ろうかと思ったり、他の俳優が、彼を舞台でいじめる役が居なくなって困ったほどであった。その美しい姿は今日も錦絵や舞台写真で伺うことが出きる。
大阪[[道頓堀]]に歌舞伎役者[[中村富四郎]]の長男として生まれる。中村玉太郎、中村駒三郎の芸名を経て、[[1838年]]([[天保]]9年)、[[中村歌右衛門 (4代目)|四代目中村歌右衛門]]の養子となる。同年江戸に下り翌年3月、'''初代[[中村福助]]'''を名乗る。[[1860年]]([[万延]]元年)7月四代目[[中村芝翫]]を襲名。[[1863年]]([[文久]]3年)には[[守田座]]座頭になる。以後は江戸の舞台で活躍する。美しい容貌で、いくらがんばっても本物のように描けないと浮世絵師を嘆かせたという。人気も物凄く、名人と呼ばれた[[市川小團次 (4代目)|四代目市川小團次]]も、芝翫には勝てず、一時は大阪へ帰ろうかと思ったり、他の俳優が、彼を舞台でいじめる役が居なくなって困ったほどであった。その美しい姿は今日も錦絵や舞台写真で伺うことが出きる。


立役・実悪・女形を兼ね、時代物世話物も得意。ことに父四代目歌右衛門から仕込まれた所作事は絶品であった。だが、台詞覚えが悪く舞台では常に黒子がプロンプターの役をしていた。このことは、芝翫が初演時に演じた『[[白浪五人男]]』の南郷力丸の台詞に「特に台詞を覚えるのがきらいだ」と[[河竹新七]]に書かれるほど知られていたようだ。しかし、複雑な踊りの手順はことごとく覚えていたという。
立役・実悪・女形を兼ね、時代物世話物も得意。ことに父四代目歌右衛門から仕込まれた所作事は絶品であった。だが、台詞覚えが悪く舞台では常に黒子がプロンプターの役をしていた。このことは、芝翫が初演時に演じた『[[白浪五人男]]』の南郷力丸の台詞に「特に台詞を覚えるのがきらいだ」と[[河竹新七]]に書かれるほど知られていたようだ。しかし、複雑な踊りの手順はことごとく覚えていたという。後年、九代目市川團十郎と「二人道成寺」を踊った時は。團十郎が汗だくなのに対し芝翫は汗一つかいておらず周囲を驚嘆させた


実生活でも逸話の多い人で、倅の四代目福助(後の[[中村歌右衛門 (5代目)|五代目中村歌右衛門]])が地球儀を見せて、ここが日本ですと教えると「べらぼうめ。日本がそんなに狭いわけがねえ」と怒り出す。そこでアメリカを指して日本ですと言ったら「あたりめえよ。そうでなくちゃいけねえ」と答えたり、近所で火事が起るとなにもかもほったらかして見物に行くなど。
実生活でも逸話の多い人で、倅の四代目福助(後の[[中村歌右衛門 (5代目)|五代目中村歌右衛門]])が地球儀を見せて、ここが日本ですと教えると「べらぼうめ。日本がそんなに狭いわけがねえ」と怒り出す。そこでアメリカを指して日本ですと言ったら「あたりめえよ。そうでなくちゃいけねえ」と答えたり、近所で火事が起るとなにもかもほったらかして見物に行くなど。

2008年2月3日 (日) 14:00時点における版

四代目 中村芝翫

豊原国周 画『江戸八景廼内 みかわしまの落行 新田梅治郎』

四代目 中村 芝翫(よだいめ なかむら しかん、天保2年3月3日(1831年4月15日) - 明治32年(1899年)1月16日)は、歌舞伎役者。屋号成駒屋。俗に「大芝翫」と呼ばれた名優。立役・実悪・女形。

大阪道頓堀に歌舞伎役者中村富四郎の長男として生まれる。中村玉太郎、中村駒三郎の芸名を経て、1838年(天保9年)、四代目中村歌右衛門の養子となる。同年江戸に下り翌年3月、初代中村福助を名乗る。1860年万延元年)7月四代目中村芝翫を襲名。1863年(文久3年)には守田座座頭になる。以後は江戸の舞台で活躍する。美しい容貌で、いくらがんばっても本物のように描けないと浮世絵師を嘆かせたという。人気も物凄く、名人と呼ばれた四代目市川小團次も、芝翫には勝てず、一時は大阪へ帰ろうかと思ったり、他の俳優が、彼を舞台でいじめる役が居なくなって困ったほどであった。その美しい姿は今日も錦絵や舞台写真で伺うことが出きる。

立役・実悪・女形を兼ね、時代物世話物も得意。ことに父四代目歌右衛門から仕込まれた所作事は絶品であった。だが、台詞覚えが悪く舞台では常に黒子がプロンプターの役をしていた。このことは、芝翫が初演時に演じた『白浪五人男』の南郷力丸の台詞に「特に台詞を覚えるのがきらいだ」と河竹新七に書かれるほど知られていたようだ。しかし、複雑な踊りの手順はことごとく覚えていたという。後年、九代目市川團十郎と「二人道成寺」を踊った時は。團十郎が汗だくなのに対し芝翫は汗一つかいておらず周囲を驚嘆させた。

実生活でも逸話の多い人で、倅の四代目福助(後の五代目中村歌右衛門)が地球儀を見せて、ここが日本ですと教えると「べらぼうめ。日本がそんなに狭いわけがねえ」と怒り出す。そこでアメリカを指して日本ですと言ったら「あたりめえよ。そうでなくちゃいけねえ」と答えたり、近所で火事が起るとなにもかもほったらかして見物に行くなど。

温厚篤実な性格であったが、覇気に欠ける嫌いがあった。それがわざわいし、明治以降は古風な芸が時代に合わなくなっていった。また、口跡の悪さが年と共にひどくなったり、台詞覚えが悪いことが新作に向かないなどの理由で、大舞台から遠ざけられ小芝居に出るようになった。特に1893年(明治26年)、巡業中の多治見で『法界坊』を上演中に足を負傷し、演技に支障をきたすようになるなど、ますます生彩を欠き晩年は不遇であった。

時折、歌舞伎座の舞台に立ち、観客を魅了した。実際の舞台に接した岡本綺堂は、芝翫の顔の立派さは九代目團十郎の比ではないほど立派なもので、あの鋭い目で見得をすると他の俳優が光を失うと証言している。

当り役は『妹背山婦女庭訓』の大判事、『寿曽我対面』の工藤、『熊谷陣屋』の熊谷、『助六』の意休『義経腰越状』の五斗兵衛、『山門』の石川五右衛門、『夏祭浪花鑑』の團七、『金閣寺』の松永大膳、『日高川』の船頭、『隅田川続俤』の法界坊。所作事は『六歌仙』『京鹿子娘道成寺』。

養子が五代目中村歌右衛門。