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[[1928年]]、大阪に生まれる。[[1951年]][[京都大学]]法学部を卒業。[[1957年]]より[[弁護士]]を開業する。[[1974年]]、大阪市長選挙に落選後、日本共産党のすすめにより参議院大阪選挙区で立候補、初当選。以後当選4回。


[[1988年]]3月26日、参議院[[予算委員会]]において[[日本人拉致問題]]に関する質問をして[[梶山静六]][[国家公安委員長]]から北朝鮮による関与が濃厚とする答弁を初めて引き出す(拉致問題を国会で初めて取り上げたのは1980年の公明党の[[和泉照雄]]参議院議員)。拉致被害者の著書などでもこの答弁を引き出した橋本敦の存在は大きい。
[[1988年]]3月26日、参議院[[予算委員会]]において[[日本人拉致問題]]に関する質問をして[[梶山静六]][[国家公安委員長]]から北朝鮮による関与が濃厚とする答弁を初めて引き出す(失踪問題を国会で初めて取り上げたのは1980年の公明党の[[和泉照雄]]参議院議員)。拉致被害者の著書などでもこの答弁を引き出した橋本敦の存在は大きい。


[[1997年]]、再び拉致問題を参議院[[法務委員会]]で質問する。
[[1997年]]、再び拉致問題を参議院[[法務委員会]]で質問する。

2007年9月18日 (火) 11:24時点における版

橋本 敦(はしもと あつし、1928年8月3日 - )は、日本の政治家。日本共産党所属の元参議院議員

概要

1928年、大阪に生まれる。1951年京都大学法学部を卒業。1957年より弁護士を開業する。1974年、大阪市長選挙に落選後、日本共産党のすすめにより参議院大阪選挙区で立候補、初当選。以後当選4回。

1988年3月26日、参議院予算委員会において日本人拉致問題に関する質問をして梶山静六国家公安委員長から北朝鮮による関与が濃厚とする答弁を初めて引き出す(失踪問題を国会で初めて取り上げたのは1980年の公明党の和泉照雄参議院議員)。拉致被害者の著書などでもこの答弁を引き出した橋本敦の存在は大きい。

1997年、再び拉致問題を参議院法務委員会で質問する。

2002年、かつての秘書兵本達吉から「拉致事件の解明を妨害してきた張本人」だと非難されるが、現在ではその疑いは否定されている。

現在は弁護士として現役で活動をしている。自由法曹団所属。

兵本の告発の主な内容とそれに対する橋本の反論

兵本は、「私を除名したのは拉致問題解明の妨害」だと主張している。

これにたいして橋本は、「98年3月の時点で兵本は定年だった。兵本をやめさせたいのであればそこでやめさせればよかっただけの話だ。しかし私は定年延長の手続きをしている。除名の原因は5月に彼が、警視庁警備公安警察官に自分の採用を事実上依頼する対応をしたことである。」と反論している。

兵本は、「私が拉致の解明のために出張をしようとすると橋本にとめられた事があった」と主張している。

これにたいして橋本は、「その件は党議員団が行うべき調査活動というようなものではなかったので止めただけで、拉致解明を妨害する意図などない」と反論している。

兵本は、「橋本の質問内容はほとんど私が書いたもので、橋本はそれを読み上げただけ」と主張している。

これにたいして橋本は、「拉致問題を取り上げようと言ったのは自分であるし、原稿も秘書の資料を踏まえて私が書いたもの」と反論している。