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'''徳川夢声'''(とくがわ むせい、[[1894年]][[4月13日]] - [[1971年]][[8月1日]])は[[弁士]]、[[講談師]]、[[作家]]、[[俳優]]。[[大正]]から[[昭和]]中期にかけて、[[ラジオ]]・[[テレビ]]番組などをはじめ、多方面で活動した日本の元祖[[マルチタレント]]とも言える人物である。本名は'''福原駿雄'''(ふくはら・としお)。「[[彼氏]]」「[[恐妻家]]」の造語でも知られる。
'''徳川夢声'''(とくがわ むせい、[[1894年]][[4月13日]] - [[1971年]][[8月1日]])は[[弁士]]、[[講談師]]、[[作家]]、[[俳優]]。[[ラジオ]]・[[テレビ]]番組などをはじめ、多方面で活動した日本の元祖[[マルチタレント]]とも言える人物である。本名は'''福原駿雄'''(ふくはら・としお)。「[[彼氏]]」「[[恐妻家]]」の造語でも知られる。


==経歴==
==経歴==

2007年8月28日 (火) 02:21時点における版

徳川夢声(とくがわ むせい、1894年4月13日 - 1971年8月1日)は弁士講談師作家俳優ラジオテレビ番組などをはじめ、多方面で活動した日本の元祖マルチタレントとも言える人物である。本名は福原駿雄(ふくはら・としお)。「彼氏」「恐妻家」の造語でも知られる。

経歴

島根県益田市に生まれ、東京に育つ。幼少の頃は話術が達者で当時演じられていた落語をほとんど覚えていたという。

東京府立第一中学校(現在の都立日比谷高校)を卒業したが、一高(現在の東京大学教養学部)の入学試験に二度失敗。憧れの落語家になるため三遊亭圓子の元に入門を決意する。しかし親に反対され、1913年(大正2年)に活動写真(無声映画)の弁士となる。芸名は無声映画の「無声」から「夢声」と付けたと思われる。

1915年(大正4年)に赤坂葵館に出演。1921年(大正10年)5月14日、日本で初公開のドイツ表現派の映画「カリガリ博士」の弁士を務めたという記録もあり、活動写真が好きでなかった竹久夢二なども観覧し、その印象を雑誌「新小説」に挿絵とともに寄稿している。1925年(大正14年)、新宿武蔵野館に入る。

昭和の時代になって、音声の出るトーキーが登場すると弁士の必要はなくなり、漫談や演劇に転じる。 1933年、劇団「笑ひの王国」を結成するも意見の相違ですぐに脱退。1937年、岸田国士、杉村春子らの文学座に参加。また文筆に優れ、1938年(昭和13年)、1949年(昭和24年)の直木賞候補にもなった。

第二次世界大戦後は新しいメディアの波に乗り、ラジオ・テレビで活躍した。NHKラジオのクイズ番組『話の泉』のレギュラー回答者などを努め、連続ラジオ小説『宮本武蔵』(吉川英治作)の朗読では、弁士時代に培った独特の語り口で全国的な人気を博した。テレビ放送にも初期から関わり、NHKテレビの『こんにゃく問答』(柳家金語楼と競演)などに出演、日本におけるテレビ創生期の立役者のひとりである。

1965年には愛知県犬山市にオープンした博物館明治村の初代村長となった。 昭和46年8月1日、脳軟化症に肺炎を併発して死去(享年77)。

著書

  • 夢声戦争日記(1941年12月8日-1945年8月15日の日記)
  • 徳川夢声の問答有用(『週刊朝日』の人気連載で、各界著名人との対談 [1]
  • 話術