「渋川玄耳」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
20行目: 20行目:
*[[文字及書道]] (中文館書店)
*[[文字及書道]] (中文館書店)
*[[薮野椋十わがまゝ]] (誠文堂書店)
*[[薮野椋十わがまゝ]] (誠文堂書店)
*[[日本と世界見物]] (誠文堂書店)
*[[古事記噺]] (精美堂)


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==

2007年6月27日 (水) 01:35時点における版

渋川 玄耳(しぶかわ げんじ、1872年6月3日 - 1926年4月9日)。明治期に活躍した軍人ジャーナリスト佐賀県出身。本名渋川柳次郎。ほかに薮野椋十の筆名を用いる。

陸軍法官として第六師団在勤中、紫溟吟社で加入して夏目漱石と交わる。日露戦争終結後に陸軍を辞して現在の朝日新聞に入社し、社会面の刷新などに功績。校正係として在籍していた石川啄木とも親交を結び、啄木の歌集『一握の砂』の序文を藪野椋十名で執筆した。

社会部長を務めていた1911年(明治44年)、紙上でキャンペーン記事「野球と其害毒」を展開し、いわゆる野球害毒論の論陣を張る。しかし、このキャンペーンは多くの反発を招く結果となり、東京朝日新聞はキャンペーンを途中で打ち切ることになった。この責任を取る形で渋川は東京朝日新聞を退社している。


作品一覧

参考文献

外部リンク