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'''ミヨシ・ウメキ'''('''Miyoshi Umeki''', [[1929年]][[4月3日]] - )は、[[北海道]][[小樽市]]生まれの[[ジャズ]][[歌手]]、[[女優]]である。本名は梅木美代志、[[日本]]では'''ナンシー梅木'''の[[芸名]]で知られる。[[1957年]]の[[ハリウッド]]映画'''「[[サヨナラ (映画)|サヨナラ]]」'''で東洋人の俳優として初の[[アカデミー賞]]を受賞した。
'''ミヨシ・ウメキ'''('''Miyoshi Umeki''', [[1929年]][[4月3日]] - )は、[[北海道]][[小樽市]]生まれの[[ジャズ]][[歌手]]、[[女優]]である。本名は梅木美代志、[[日本]]では'''ナンシー梅木'''の[[芸名]]で知られる。[[1957年]]の[[ハリウッド]]映画'''「[[サヨナラ (映画)|サヨナラ]]」'''で東洋人の俳優として初の[[アカデミー賞]]を受賞した。
(その後、東洋人の[[アカデミー賞]]での演技部門受賞者は、カンボジア・プノンペン出身の産婦人科医また俳優である[[ハイン・S・ニョール]]が1984年に「[[キリング・フィールド]]」に出演し、カンボジア人の通訳兼ガイドのディス・プラン役で、それまで演技をしたことがなかったものの、[[アカデミー助演男優賞]]を受賞した。)
(それ以来49年間誰もいない)



兄が進駐軍の通訳をしていた関係からキャンプでジャズを歌うようになり、1950年代日本のジャズ歌手の草分けとして[[角田孝]]&シックスや[[レイモンド・コンデ]]の[[ゲイ・セプテット]]などで人気を博し、ナイトクラブやステージで活躍した。『青春ジャズ娘 』(1953)、『ジャズ・オン・パレード1954年 東京シンデレラ娘』(1954) などのミュージカル映画にも出演した。
兄が進駐軍の通訳をしていた関係からキャンプでジャズを歌うようになり、1950年代日本のジャズ歌手の草分けとして[[角田孝]]&シックスや[[レイモンド・コンデ]]の[[ゲイ・セプテット]]などで人気を博し、ナイトクラブやステージで活躍した。『青春ジャズ娘 』(1953)、『ジャズ・オン・パレード1954年 東京シンデレラ娘』(1954) などのミュージカル映画にも出演した。

2007年3月29日 (木) 09:06時点における版

ミヨシ・ウメキMiyoshi Umeki, 1929年4月3日 - )は、北海道小樽市生まれのジャズ歌手女優である。本名は梅木美代志、日本ではナンシー梅木芸名で知られる。1957年ハリウッド映画サヨナラで東洋人の俳優として初のアカデミー賞を受賞した。 (その後、東洋人のアカデミー賞での演技部門受賞者は、カンボジア・プノンペン出身の産婦人科医また俳優であるハイン・S・ニョールが1984年に「キリング・フィールド」に出演し、カンボジア人の通訳兼ガイドのディス・プラン役で、それまで演技をしたことがなかったものの、アカデミー助演男優賞を受賞した。)

兄が進駐軍の通訳をしていた関係からキャンプでジャズを歌うようになり、1950年代日本のジャズ歌手の草分けとして角田孝&シックスやレイモンド・コンデゲイ・セプテットなどで人気を博し、ナイトクラブやステージで活躍した。『青春ジャズ娘 』(1953)、『ジャズ・オン・パレード1954年 東京シンデレラ娘』(1954) などのミュージカル映画にも出演した。

1955年、音楽の勉強のため渡米した梅木は、以後活動の舞台をアメリカに移す。1956年にはCBSテレビの「アーサー・ゴドフリー・ショウ」に着物姿で出演して英語の歌を歌い話題となった。これが縁となってマーキュリー・レコードでLPアルバムを発表、ここでは英語と日本語を交えて日本とアメリカの曲を歌っている。アルバムタイトルは Miyoshi Umeki/Miyoshi Sings for Arthur Godfrey。1958年には同レーベルでセカンド・アルバム Miyoshi も発表している。

1957年、マーロン・ブランド主演の映画『サヨナラ』高美似子と共にスクリーンデビュー。この映画の演技でアカデミー助演女優賞を受賞した。これは東洋人の俳優としては初のアカデミー賞受賞であり、また助演女優賞を米国・英国以外の俳優が受賞したのも初めてであった。なお、この年の助演男優賞にはやはり日本人の早川雪洲(『戦場にかける橋』)がノミネートされていたが、受賞者は『サヨナラ』でウメキの相手役であったレッド・バトンズであった。

1958年開演のブロードウェイミュージカル『フラワー・ドラム・ソング』(Flower Drum Song) に出演したウメキは、トニー賞の最優秀ミュージカル女優賞にノミネートされ、1961年に映画化された際にも舞台と同じ役を演じた。

その他の映画出演作品には『嬉し泣き』(1961)、『戦略泥棒作戦』(1962)、A Girl Named Tamiko (1963) などがある。また、1969年(~1972年)のテレビドラマ The Courtship of Eddie's Father(エディの素敵なパパ)にレギュラー出演している。

またゴールデン・グローブ賞に3回ノミネートされている。(受賞はならず) ・主演女優賞(ミュージカル、コメディ部門) "Flower Drum Song" 1961

・助演女優賞 "Sayonara" 1957

・助演女優賞(連続TV部門) "The Courtship Of Eddie's Father" 1970

しかしながら、日本どころか世界に誇れる華やかなキャリア・受賞(歴)の影で私生活には恵まれていなかった。離婚を経験、そして再婚を果たすも再婚相手に先立たれた。梅木のショックは尋常でなかったようで、再婚相手の死後より芸能活動から遠ざかり、マスコミの取材などにも永年応じていないため近況は不詳である。  米国の様々なサイトによると、引退後ハワイに移住した後、現在はミズーリ州で息子夫婦と孫と暮らしているという。