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2007年2月21日 (水) 15:26時点における版
梶原 政景(かじわら まさかげ、1547年(天文16年) - 1615年(元和元年))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。太田資正の次男で、太田氏資の異母弟。母は大石定久の娘。没年は1623年とも。美濃守。
梶原上野介の未亡人の養子となり、梶原姓を称した。梶原姓を称した時期には諸説ある。「梶原源太」を称したとされるが、鎌倉時代の梶原氏との関係は不詳である。
父と共に反後北条氏的な人物だったため、親北条氏の立場をとる兄に1564年、父と共に岩槻城から追放された。そのため、父と共に常陸国の佐竹氏を頼り、その家臣となった。佐竹義重の小田氏治討伐で氏治を破り、その功績から小田城を与えられた。兄氏資の死後に、その後釜を狙い一時北条氏に寝返ったが、父の資正の仲介により帰参している。以後は1577年に、初陣の北条氏直による攻撃を受けるなど後北条氏との戦いを継続し、里見義頼や徳川家康と連携し挟撃を画策するなど反北条の活動を続けた。小田原の役後は佐竹氏の命令で植田城に居城を移した。関ヶ原の戦いののち、佐竹氏の秋田転封に従ったがのちに離反し、結城秀康の家臣となっている。