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湯和

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湯和

湯 和(とう わ、泰定3年(1326年) - 洪武28年8月7日1395年8月22日))は、朝建国の功臣で、軍人。は鼎臣。末の濠州鍾離(現在の安徽省鳳陽県)の人。身長は7尺であったという[1]

生涯

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蜂起に参加

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姓名 湯和
時代 時代 - 時代
生没年 1326年泰定3年) - 1395年洪武28年)
字・別名 鼎臣(字)
本貫・出身地 鍾離(安徽省鳳陽県
職官 管軍総管→統軍元帥→枢密院同僉

→征南将軍→偏将軍→右副将軍
→栄禄大夫、柱国→征西将軍→左副将軍
→征虜将軍

爵位 中山侯(明)→信国公(明)→東甌王(明)
諡号 襄武(明)
陣営・所属 郭子興朱元璋
家族・一族 子:湯鼎湯醴 

湯和は孤児で、朱元璋と幼馴染であった。20代の時、郭子興の農民蜂起の軍に壮士10数名を引き連れて参加し、武功を挙げて千戸の地位を得る。このころ、朱元璋に仲間に加わるよう誘ったという[2]。湯和が朱元璋の元に馳せ参じたとする説もある[3]。朱元璋は至正12年(1352年)に郭子興の軍に加わって以来、次々と武功を挙げ、郭子興の義娘を妻とし、急速に出世していく。

朱元璋の部下となる

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至正14年(1354年)春、湯和は朱元璋の部下として、徐達費聚らと共に定遠を攻める。朱元璋軍は途中で次々に盗賊を吸収して拡大し、滁州を占領した[4]

至正15年(1355年)、朱元璋が都元帥に昇格すると、その配下として元朝の支配する采石(安徽省馬鞍山市雨山区)、太平(安徽省当塗県)を攻略する。この年、郭子興が死に、朱元璋はその後継者となる。

至正16年(1356年)、朱元璋は集慶(江蘇省南京市)を占領して応天府と改名する。元軍は奪還を試みるが、湯和は徐達、鄧愈らとともに奇襲をかけてこれを退け、これらの功で、統兵元帥となる。翌年、常州金壇(江蘇省常州市金壇区)を下す。

張士誠からの防御に当たる

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朱元璋の「張士誠には守りを以って攻めとし、陳友諒には攻めを以って守りとする」という戦略の下[2]、湯和は至正17年(1357年)から防御線の一端として常州を守備し、張士誠の攻撃を度々退けた。

朱元璋は陳友諒を滅ぼした後、至正25年(1365年)から徐達に張士誠を討ち取らせる。

周辺国の掃討に当たる

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至正27年(1367年)、御史大夫に任ぜられる。同10月、征南将軍に任ぜられ、呉禎を副将として方国珍を攻める。方国珍は部下と共に海船で逃走するが、盤峙島(浙江省舟山市定海区)で待ち構えていた廖永忠が海上から迎撃し、方国珍は12月に投降する。これにより浙東(浙江省東部)は平定される。

同年、海上から福州陳友定を攻略するため、閩(福建省)に軍を進めた。

至正28年(1368年)正月、陳友定は2万の兵を配し、精兵をもって延平を守備していたが、湯和、廖永忠らが明州(浙江省寧波市)から水軍をもって延平に侵攻し、10日間で落城させた。陳友定は自殺を図るも未遂、応天に護送されて死刑となる。次いで大同、宣府(河北省張家口市宣化区)を攻略した。

北征に参加する

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同年、広東を攻略し元将何真を降した。同年、徐達が率いる北伐軍に参加する。湯和は馮勝と共に、懐慶沢州潞州を下した(この時から、元は北元と呼ばれる)。

洪武2年(1369年)、徐達が慶陽を下した後、入れ替わりで慶陽に派遣される。

洪武3年(1370年)、李文中を大将とする北征軍に、馮勝、鄧愈らと共に加わる。この軍は興和(河北省張北県)を始めとした元領を降す。11月には論功行賞が行われ、の地位は逃すものの(6人いた)、中山侯に封じられた。侯に任じられた人物は28人おり、湯和は明史でその筆頭に挙げられている。

洪武4年(1371年)、征西将軍となり、廖永忠、楊璟らと共に明昇を攻めるため瞿塘重慶を攻略し、明昇は明に下った。

北元からの防御に当たる

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洪武5年(1372年)、北元と断頭山(山西省陽高県南東)で戦い、敗戦する。

洪武6年(1373年)、徐達を征虜大将軍とする北伐軍に副将の一人として参加、山西、北平の防御に当たった。

洪武8年(1375年)、鄧愈と共に、北平、陝西、河南の守備に当たる。

洪武9年(1376年)、湯和は傅友徳らと共に延安の守備に当たる。

洪武11年(1378年)、信国公に封じられた。

洪武14年(1381年)、北元のブハが攻め入るが、徐達を征虜大将軍とした副将として、灰山(内モンゴル自治区寧城県南東)で撃退する。

ただし、北元は依然として勢力を保ち続け、甘粛雲南、東北地区(満州)を支配していた。これらを平定するのは湯和の隠居後(及び死後)となる。

隠居

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洪武13年(1380年)の胡惟庸の獄を起点に朱元璋は、功臣の粛清を始める。

洪武17年(1384年)、湯和は海上警備を命じられ、山東、江南北、浙東西沿海に城を築き、浙東の民5万8千余人を率いて倭寇からの沿岸防御に当たった。

洪武18年(1385年)、粛清への危機感もあったのであろう、隠居を願い出たが許されなかった。そこで酔った上での愚痴を装ったりと際どい演出を試みた結果、翌年に閩沿岸の城の完成を機に、ようやく隠居を許された。故郷の鳳陽に呼び戻され、屋敷を賜った。

洪武23年(1390年)、口が聞けなくなった。朱元璋は即日家臣を派遣して、病状を調べさせた。

洪武27年(1394年)、朱元璋が見舞いに訪れた際には涎を流し、人に支えられながら礼を取ったといわれる。

洪武28年(1395年)8月、死去。東甌王に追封され、襄武と諡号される。

参考文献

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  1. ^ 明史・湯和伝』による(ウィキソース中国語版)。中国語版ウィキペディアの説を採ると1尺=33cmなので2m余、堺屋太一の訳書によると1尺=22cmなので154cmである。
  2. ^ a b 呉晗著、堺屋太一訳注『超巨人・明の太祖朱元璋』、講談社文庫、1989年。
  3. ^ 檀上 寛、『明の太祖 朱元璋』白帝社、1994年
  4. ^ 『明史・太祖本紀』(ウィキソース中国語版)。