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洪文衡

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洪 文衡(こう ぶんこう、1560年 - 1621年)は、明代官僚は平仲。本貫徽州府歙県

生涯

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洪豪と程氏のあいだの次男として生まれた。1589年万暦17年)、進士に及第した。戸部主事に任じられた。万暦帝が皇長子朱常洛を王に封じようとすると、文衡は同官の賈巌とともに上疏し、皇長子を皇太子に立てるよう主張して争った。ほどなく礼部主事に転じた。郎中の何喬遠と仲が良く、何喬遠が罪に問われて失脚したとき、文衡は考功主事の位にあったが、病を理由に辞職して帰郷した。

文衡は南京工部主事として再び起用され、郎中となった。旧制の復活につとめ、宦官の干渉を排し、冗費を節減した。工部の官にあること9年、光禄寺少卿に進んだ。1610年(万暦38年)[1]太常寺少卿に転じ、四夷館を監督した。顧憲成の起用について、御史の徐兆魁の批判を受けたため、文衡は万暦帝が徐兆魁の言に惑わされるのを恐れて、反論の上奏をおこなった。1612年(万暦40年)[1]大理寺少卿に転じた。服喪のため官を辞去した。

1620年泰昌元年)、文衡は太常寺卿として再び起用された。1621年天啓元年)7月、文衡は太廟に憲宗を祀らず、睿宗を祀るよう上疏したが、天啓帝に聞き入れられなかった。10月、死去した。享年は62。工部右侍郎の位を追贈された。

子女

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  • 洪嗣成(長男)
  • 洪嗣彦(次男)
  • 洪嗣廉(三男)
  • 洪嗣憲(四男)
  • 洪嗣藻(五男)
  • 洪氏(汪氏にとついだ)

脚注

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  1. ^ a b 国榷』巻81

参考文献

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  • 明史』巻242 列伝第130