段灼

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段 灼(だん しゃく、生没年不詳)は、西晋の人物。涼州敦煌郡の人。字は休然

生涯[編集]

段氏は西域に土着する豪族であった。

鄧艾蜀漢を滅ぼすなど功績を重ねたが、その後に謀反の疑いをかけられ、子の鄧忠と共に殺害された。洛陽にいたその他の子も反逆者に連なる者として処刑され、妻と孫は西域へ流罪となった。

段灼は鄧艾の旧部下であったこともあり、彼を弁護して次のように述べている。泰始3年(267年)のことであった。

鄧艾が反逆したという発言は遺憾です。鄧艾は強情でせっかちな性格でして、名士や俗人どもの気持ちを軽々しく踏みにじり、そのために誰も彼を弁護してやろうとしなかったのです。

(中略)

(独断専行は)通常の規則に違反したとはいいながら、(国境を出れば自分の判断で処置して良いという)古代の建前に一致しますし、当然酌量すべき情状はあります。鍾会は、鄧艾の権威・名声を憎み、あの事件をでっち上げたのです。忠義を尽くしながら誅を受け、子供たちもいっしょに斬刑にあいました。これを見た者は涙を流し、これを聞いた者は嘆息したものです。

(中略)

蜀平定の勲功をとりあげて、彼の孫に領地を継がせ、評価に従って諡号を定め、死者に恨みが残さないですむようにしてください。黄泉にいる無実の魂に恩赦を与え、子孫に信義をのべることになります。

当時、既に刑に処されたものを弁護することは、過去の政権の誤りを申し立てることでもあり、自らの失脚に繋がる行為だった。ましてや反逆者として処刑された者の名誉回復の嘆願をするなどは命懸けの所業であり、まず受け入れられないものだった。しかし段灼の嘆願は実を結び、泰始9年(273年)、皇帝司馬炎は鄧艾の功を評価して名誉を回復させると共に、彼の孫の鄧朗を郎中に取り立てた。

段灼のこの嘆願は、異民族に対して寛容だった鄧艾を再評価することにより、晋の西域の異民族政策の転換を促す意図を有していた。しかしそれも空しく、泰始年間には大規模な反乱が勃発することになる。

出典[編集]