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武谷祐之

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武谷 祐之(たけや ゆうし[1](「すけゆき」との記載もあり[2])、文政3年4月2日1820年5月13日〉 - 明治27年(1894年)2月1日[1])は、江戸時代明治時代の医学者(蘭方医)。福岡藩藩医は椋亭、澧蘭、鷗洲、三餘学人。(あざな)は元吉[3]

生涯

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蘭方医武谷元立の長男として、筑前国鞍手郡高野村(現・福岡県宮若市)に生まれる[1]月形鷦窠[4]天保7年(1836年)[5]広瀬淡窓儒学を学び[4]、天保14年(1843年)大坂に出て、緒方洪庵適塾に入り西洋医学[3]蘭学を修めた。弘化3年(1846年)種痘書『接痘瑣言』を翻訳した[1]

嘉永元年(1848年)福岡に帰り[1]、郡の頭取医として[2]モーニッケがもたらした痘苗を入手し、藩内において種痘を実施した[5]

安政2年(1855年)福岡藩城代組医兼製煉方御用に登用され[3]、その後福岡藩主黒田長溥の侍医となり[4]、以来藩の医政に関与し、西洋文物を取り入れることに力を入れ、医事済生の発展に貢献した[2]肝油の製造や、福岡藩内の蘭学者の育成に努めている[3]。藩医学校の設立の必要を上言して容れられ、慶応3年(1867年)城下に藩医学校「賛生館」(九州大学の起源)を設立。漢洋両科、附属病院を置き、藩医の子弟のみならず、あまねく医学志望者の入学を許可し[2]、自ら督学となり采配をふるった[1]

明治維新後は、藩主に従い、東京に居住したが、病を得て、明治10年(1877年)帰郷[2]

著書に、種痘書『牛痘告諭』、自伝『南柯一夢』などがある[4][1]

出典

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  1. ^ a b c d e f g 武内博編『日本洋学人名事典』(柏書房、1994年)235頁
  2. ^ a b c d e 泉孝英編 『日本近現代医学人名事典』(医学書院、2012年)383頁
  3. ^ a b c d 『国書人名辞典 第3巻』(岩波書店、1996年)197頁
  4. ^ a b c d 『日本人名大辞典』(講談社、2001年)1152頁
  5. ^ a b 竹内誠・深井雅海編『日本近世人名辞典』(吉川弘文館、2005年)576頁