楊機

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

楊 機(よう き、474年 - 534年)は、北魏官僚は顕略。本貫天水郡顕親県

経歴[編集]

楊機の一族は、祖父の楊伏恩の代に、天水郡から洛陽に移住した。楊機は若くして河南尹の李平元暉に功曹として召され、元暉にはとくに郡の事務を委ねられた。朝廷では奉朝請を初任とした。ときに宣武帝は皇子の国官として清直の士を選抜しようと図り、楊機は京兆王元愉のために推挙されて京兆国中尉となり、元愉の畏敬を受けた。給事中・伏波将軍・廷尉評に転じた。延昌年間、行河陰県事をつとめた。楊機は行政に熟知し、権勢におもねらず、裁判は温情をむねとしたので、名声を博した。荊州刺史楊大眼に召し出されてその下で平南府長史をつとめた。熙平年間、涇州平西府長史となった。まもなく河陰県令に任じられ、さらに洛陽県令に転じた。鎮軍将軍・司州治中となり、司州別駕に転じた。荊州の少数民族が反乱を起こすと、楊機は兼尚書左丞・南道行台として反乱を討った。凱旋すると、中散大夫の位を受け、再び司州別駕となり、司州牧の高陽王元雍に事務の多くを任された。清河郡内史として出向し、左将軍河北郡太守に転じて、有能で知られた。528年建義元年)、平南将軍・光禄大夫・兼廷尉卿に任じられた。さらに安南将軍・司州別駕となった。ほどなく河南尹を代行した。廷尉卿となり、衛尉卿に転じて、安西将軍・華州刺史として出向した。永熙年間、衛将軍・右光禄大夫の位を受けた。まもなく度支尚書に任じられた。534年(永熙3年)8月、高歓により辛雄叱列延慶崔孝芬らとともに洛陽の永寧寺で殺害された。

子の楊毗羅は、開府参軍事を初任とし、鎮遠将軍として死去した。

伝記資料[編集]