楊晳
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楊晳 | |
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遼(契丹) | |
王朝 | 遼(契丹) |
字 | 昌時 |
官職 | 南院枢密使 |
生年 | 不詳 |
没年 | 太康5年(1079年)以降 |
子女 | 楊規正、楊貴忠 |
楊 晳(よう せき)は、遼(契丹)の政治家。字は昌時。楊績とも書かれる。本貫は幽州安次県。
生涯
[編集]幼少より五経の大義に通じた。楊晳が聡明であると聞いた聖宗によって、詩作を課されて試験を受け、秘書省校書郎に任じられた。太平11年(1031年)、進士乙科に及第して、著作佐郎となった。
重熙12年(1043年)、枢密都承旨に累進し、度支使を務めて南院枢密副使に進んだ。重熙19年(1050年)、杜防や韓知白らと論争して長寧軍節度使に左遷され、涿州知州に移された。山西路転運使となり、興中府知府を務めた。清寧元年(1055年)、参知政事・同知枢密院事に任じられた。南府宰相となり、姚景行と共に朝政を総覧した。趙国公に封じられた。清寧9年(1063年)に皇太叔の耶律重元が乱が起こすと、姚景行と共に兵を出して道宗を輔けた。清寧10年(1064年)、足の病を理由に再び知興中府として出向した。咸雍元年(1065年)に召還されて知枢密院事となった。斉国公に徙封され、同徳功臣の称号を賜り、尚書左僕射・中書令となった。咸雍2年(1066年)に致仕を願い出たが許されず、南院枢密使に任じられ、晋国公に改封された。咸雍8年(1072年)、趙王に封じられた。
たびたび引退を願い出てようやく許可され、保節功臣の称号を賜って致仕した。太康5年(1079年)、遼西郡王に改封された。守太保の位を加えられ、死去した。
子女
[編集]- 楊規正(知順州、太傅)
- 楊規忠(知興中府)
伝記資料
[編集]- 『遼史』巻89 列伝第19
- 『遼史』巻97 列伝第27
- ※『遼史』巻89 楊晳伝と巻97 楊績伝は、同一人物についての伝が重複して立てられている。