栗栖天山

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栗栖 天山(くるす てんざん、天保10年8月10日1839年9月17日) - 慶応2年12月9日1867年1月14日))は、日本の武士儒学者岩国藩士。を靖、通称平次郎、は子共、は天山。

生涯[編集]

天保10年(1839年)8月10日、周防国岩国に生まれる。江戸昌平黌で学び、慶応元年(1865年)3月、藩校養老館の助教に任用される。慶応2年(1866年)、同じく養老館の助教であった東沢瀉と共に、勤王の必死組(のち精義隊)を組織する。が、隊士の粗暴な挙動の責をとわれ、同年11月17日、沢瀉と共に柱島流罪となる。その後脱島し、所思を訴えるが同士の賛同を得られず、同年12月9日自害。なお、沢瀉はそのまま柱島に留まり、明治2年(1869年)秋、戊辰戦争での精義隊の活躍もあり赦された。

明治44年(1911年)、正五位を追贈された[1]

三士誠忠碑[編集]

東沢瀉、栗栖天山、南部五竹を岩国では三士と称する。彼らの活躍を後世に伝えるべく、明治25年(1892年)藩公および旧藩有志により、吉香神社境内に三士誠忠之碑が建立された。

脚注[編集]

  1. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.30