東沢瀉

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東沢瀉

東 沢瀉(ひがし たくしゃ、天保3年10月9日1832年11月1日〉 - 明治24年〈1891年3月28日)は、幕末岩国藩士・儒学者陽明学者)。は正純、通称は崇一郎、は白沙、沢瀉。沢瀉の号は、明治になってから用いている。

生涯[編集]

天保3年(1832年)10月9日、周防国岩国錦見に生まれる。藩校養老館では、大草馨堂、南部五竹と並んで学内の三博士と称せられた。その後、江戸に出て佐藤一斎らに陽明学を学ぶ。文久3年(1863年)3月、養老館の助教に任用されるが、朱子学中心の学風と合わず、1年で辞任した。岩国藩の佐幕的姿勢に満足せず、尊王攘夷を唱えて必死組を組織し、栗栖天山や南部五竹らと共に兵制改革を進める。結果、岩国藩に精義隊(必死組より改名)・日新隊・建尚隊・敬威隊の四隊が編成されることとなった。しかし、精義隊隊士の粗暴な行動が問題になり、沢瀉と天山が責任をとって自首、慶応2年(1866年)11月17日、両名は柱島流罪となる。天山はまもなく柱島を脱出、後自決する。沢瀉はそのまま柱島に留まり、明治2年(1869年)秋、戊辰戦争での精義隊の活躍もあり赦された。

明治3年(1870年)10月、号を白沙から沢瀉に改め、保津村に沢瀉塾を開き、明治17年(1884年)までの14年間、後進の教育に尽くした。現在も保津に記念館がある。

明治44年(1911年)、正五位を追贈された[1]

三士誠忠碑[編集]

東沢瀉、栗栖天山、南部五竹を岩国では三士と称する。彼らの活躍を後世に伝えるべく、明治25年(1892年)藩公および旧藩有志により、吉香神社境内に三士誠忠之碑が建立された。

文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.30