松前忠広

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松前忠広
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 天正8年(1580年)または天正7年(1579年
死没 元和3年7月29日1617年8月30日
別名 武蔵丸、甚五郎、甚平次
官位 従五位下隼人正
幕府 江戸幕府書院番頭
主君 徳川秀忠
氏族 松前氏
父母 松前慶広村上季儀の娘
兄弟 盛広喜庭直信室、忠広利広由広次広景広安広満広下国広季
須摩井次郎右衛門の娘
直広永井直元
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松前 忠広(まつまえ ただひろ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将旗本官位従五位下隼人正

略歴[編集]

松前藩祖・松前慶広の次男として誕生。藩祖・慶広の嫡男だった盛広の同母弟。幼少期から詩歌や武勇に優れた聡明な人物だったという。

慶長4年(1599年)には父と上洛して徳川家康に拝謁する。慶長9年(1604年)には父から江戸で分家することを許され、徳川秀忠に仕えた。慶長15年(1610年)には下総国結城で1000石を与えられ、従五位下・隼人正に叙任する。

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣に参加し、元和元年(1615年)11月には戦功により武蔵国八幡山で1000石を加増された。元和3年(1617年)、秀忠の上洛に従ったが病に倒れ、伊勢国桑名で没した。享年38。

跡は子・直広が継いだ。なお、宗家の盛広系松前家が5代目の矩広で絶えると、6代目からは忠広の曾孫である邦広が宗家を継ぎ、以後は忠広系松前家として幕末まで続いた。