村野文次郎

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村野 文次郎(むらの ぶんじろう、1852年嘉永5年9月27日)- 1919年大正8年)3月13日)は、日本実業家福井県羽二重の技術を導入し福井商業会議所副会頭を務めた。

生涯[編集]

出生と村野家への入籍[編集]

1852年(嘉永5年)9月27日、福井県福井市豊島中町、伊東權平の次男として出生。1876年明治9年)6月30日、福井県福井市簸川中町の福井藩士、村野近良1831年天保2年)10月11日 - 1910年明治43年)4月29日)の長女、いく(1859年安政6年)10月8日 - 1918年大正7年)10月20日)の婿として入籍。1885年明治18年)10月8日、村野家の家督を相続し、近良の長男 村野雅夫(1874年明治7年)3月27日 - 没年月日不明)は廃嫡。

家族[編集]

文次郎の長女 村野房於(1882年明治15年)12月14日 - 没年月日不明)は、村野外牧と1901年明治34年)に結婚。長男 村野二三男1885年明治18年)9月27日 - 没年月日不明)は、陸軍士官学校17期、陸軍少将。次女 英尾(1887年明治20年)1月11日 - 没年月日不明)は坪田捨松と結婚。次男 村野貞朗1889年明治22年)9月27日 - 1960年昭和35年)10月10日)は、大和紡績取締役・大和ゴム社長。三女 織恵(1892年明治25年)4月10日 - 没年月日不明)は太田清松と結婚。三男 文六(1895年明治28年)1月28日 - 1913年大正2年)6月23日)。

業績[編集]

織物技術の習得[編集]

1876年(明治9年)敦賀県の伝習生派遣事業を通じて、洋式染色法研究のため京都府立染色伝習所(染殿)へ派遣され中村喜一郎に師事。同所の教師でフランス リオンでジャガード織を学んだ佐倉常七とも親しくなり、製織技術やジャカード織機を習得した。その後、東京大学で化学や染色を講義していた山岡次郎に師事[1]

1877年(明治10年)4月、士族14人が出資して福井市毛矢町に「福井織工会社」が作られ、義父 近良も参加し社長に就任。綾織、ハンカチーフの製織を開始[1]

羽二重の導入[編集]

1885年明治18年)11月、山岡次郎を介して、初めて桐生の機業家森山芳平[2]を訪ねる。森山に師事していた高力直寛が招聘されることになり、福井織工会社で3週間にわたる講習会が実施されたのが、福井における羽二重製織のはじまりとなる。

1896年明治29年)6月6日、県織物組合により、市場調査のため、杉田定一とともに米国、ヨーロッパに派遣される。11月に杉田が帰国[3]した後も、ドイツなどの視察を継続して翌年帰国する。

出典[編集]

  1. ^ a b 奥山秀範「モノづくり福井の原点 羽二重王国への道」ラジオ放送講座 第14巻第2号 平成15年5月1日
  2. ^ 「図説 福井県史」福井県「輸出羽二重業の勃興(1)」
  3. ^ 福井新聞 明治18年11月29日 第1189号