李思賢

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李思賢
『最新支那要人伝』(1941年)
プロフィール
出生: 1886年光緒12年)
死去: 1951年1月19日
中華人民共和国福建省廈門市
出身地: 広東省広州府新会県
職業: 政治家・司法官
各種表記
繁体字 李思賢
簡体字 李思贤
拼音 Lǐ Sīxián
ラテン字 Li Szu-hsien
和名表記: り しけん
発音転記: リー スーシエン
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李 思賢(り しけん)は中華民国の政治家・司法官。中華民国維新政府、南京国民政府(汪兆銘政権)の要人。

事跡[編集]

福建公立専門学校専門科を卒業。霞浦県知事[要出典]を経て、福建省で司法官となる。1917年民国6年)、廈門で弁護士を開業した。1931年(民国20年)まで福建の弁護士会長をつとめ、中華弁護士協会理事なども兼ねている。

1938年(民国27年)1月、李思賢は廈門治安維持会司法処主任審判官となる。3月、廈門治安維持会会長兼高等法院院長となる。7月、中華民国維新政府において廈門市政府[1]が成立すると、市長に就任した。さらに高等法院院長と特別市警察庁庁長を兼ね、廈門の政治・司法・警察をすべて自身の手で指揮している。

1940年(民国29年)に南京国民政府(汪兆銘政権)が成立しても、引き続き李思賢が廈門市長に留任している。1943年(民国32年)3月、廈門市は特別市に昇格した際にも、やはり李が引き続き特別市長をつとめた。1945年(民国34年)8月に汪兆銘政権が崩壊するまで、同職にあった。李の廈門統治は7年余りにわたったことになる。

中華人民共和国建国後の1951年1月19日、李思賢は廈門市人民法院により民衆裁判(「公審大会」)にかけられ、漢奸として処刑された。享年66。

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  1. ^ 『最新支那要人伝』は、この時点で特別市政府が成立したとしている。しかし本記事では、特別市政府昇格につき、劉寿林ほか編『民国職官年表』の記述に従う。

参考文献[編集]

  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。 
  • 「1951年福建大事記」(福建省人民政府ホームページ)[リンク切れ]
  南京国民政府(汪兆銘政権
先代
(創設)
廈門特別市長
1943年3月 - 1945年8月
次代
(廃止)