朴炳権
朴炳権 박병권 | |
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生誕 |
1920年1月8日 日本統治下朝鮮忠清南道論山 |
死没 |
2005年9月20日(85歳没) 大韓民国京畿道城南市 |
所属組織 |
大日本帝国陸軍 大韓民国陸軍 |
最終階級 |
少尉(日本陸軍) 中将(韓国陸軍) |
墓所 | 国立大田顕忠院将軍第1墓域28号 |
朴 炳権(パク・ピョングォン、박병권)は、大韓民国の陸軍軍人。最終階級は中将(大日本帝国陸軍では少尉)。朴正熙政権の国防部長官(国防相)を務めたが、民政復帰に反対して辞任した。太極武功勲章授与者。
経歴
[編集]1920年1月、忠清南道論山に生まれる。本貫は密陽朴氏[1]。1944年、延禧専門学校卒業。学徒出陣して陸軍予備士官学校(福知山中部軍教育隊)を卒業し、陸軍少尉に任官される[2]。
光復後、韓国に帰国し、大韓民国陸軍に加わる。1946年1月、軍事英語学校(大韓民国陸軍士官学校)卒業、任少尉(軍番10020番)。李致業少尉、宋堯讃少尉、白南権少尉とアメリカ人少佐と共に第5連隊(釜山)の創設に任じ、中隊副官[3]。同年3月に白善燁中尉が大隊長兼A中隊長に赴任すると、朴は大隊副官となった[4]。
1946年9月、江陵の第8連隊に派遣され[5]、同連隊のB中隊長、第3大隊長を歴任[2]。1947年、第4連隊(光州)副連隊長[2]。同年12月14日、第5連隊長[6]。1948年7月、国防部長官専属副官[7]。
1950年6月、第5師団参謀長。同年7月7日、第1軍団軍需参謀。同年10月、第5師団副師団長。1951年3月、第2師団副師団長。同年6月、准将に昇進。1951年8月、第9師団長。1952年5月、アメリカ陸軍指揮幕僚大学に留学。1953年5月、少将に昇進。同年6月、第5師団長。
1954年3月、陸軍士官学校校長。1955年10月、第1管区司令官。1958年8月、第6管区(ソウル)司令官。1959年3月、第2訓練所長。1960年2月、第3軍団長。8月、陸軍本部人事参謀副長。11月、戦闘兵科教育基地司令官。
1961年7月、予備役編入後、国防部長官。1963年3月、朴正煕の民政参加に反対して国防部長官を辞任[8]。1965年、日韓基本条約批准に反対する予備役将軍11名の署名に参加したため拘束される[8]。1970年、大韓重石鉱業社長。
勲章
[編集]- レジオン・オブ・メリット - 1953年1月22日[9]
- 太極武功勲章 - 1954年1月16日
- 乙支武功勲章
出典
[編集]- ^ “(2)밀양 박씨(密陽朴氏)-3,031,478명” (朝鮮語). 서울이코노미뉴스 (2014年7月5日). 2022年8月15日閲覧。
- ^ a b c 佐々木 1976, p. 464.
- ^ 佐々木 1976, p. 147.
- ^ 佐々木 1976, p. 149.
- ^ 佐々木 1976, p. 175.
- ^ 佐々木 1976, p. 195.
- ^ “1948년 국군조직법 공포… 국방의 골격 갖춰지다” (朝鮮語). 국방일보. (2018年1月24日) 2019年4月14日閲覧。
- ^ a b “"밑바닥부터 기어 올라가자" 가세 기울어 학교 다니며 택시운전 … 군 입대 열흘 만에 탈영, 재입대 … JP, 육사 가는 길은 험난했다” (朝鮮語). 中央日報. (2015年4月10日) 2016年11月30日閲覧。
- ^ “Bak Byong Kown”. Military Times. 2015年12月2日閲覧。
参考文献
[編集]公職 | ||
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先代 宋堯讃 |
大韓民国国防部長官 第14代:1961 - 1963 |
次代 金聖恩 |
軍職 | ||
先代 金鐘五 |
韓国陸軍士官学校校長 第11代:1954.3.12 - 1955.6.1 |
次代 張昌国 |